ないことの証明ができないリスク

私の近所の公共施設の話です。児童センター、児童館やらが、部分的にですが、その動きを取り戻しつつあるみたいです。あと、子育て広場のような機能を持った場も、一部解凍されるみたいなことがあります。


子どもたちって、今回の新型コロナウィルスのリスクが少ないなんていうのは明らかな誤りかもしれませんが、少なくとも高齢者よりは命に関わる危険が少ないのかな、なんて思います。その場がどんな人たちのための機能なのか、という点、そこでおこなわれるのがどういう性質の活動なのか、という点などを1つ1つ、「なんでもかんでも、一斉にダメ」とすることなく、丁寧に適確に検討する余地があるという状況は、まだ余裕があるのかもしれません。


そういった個別のケースへの対処が適確になされ続ければ良いのですが、そこにやはり、ねじがゆるむかのようにぬかりがでてきてしまいかねない。個別に適確な検討を、などと言っていられなくなり、一斉に外出禁止、その活動の性質を問わず3人以上での集会が一律禁止、などといった措置が必要になってくるのかもしれません。


今回のコロナ関係なしに、私はふだんから、自分の行動とそれが招いた健康への影響に注目しています。あれは良かったなとかあれはまずかったなと日々、行動を見直し、改善しています。それでも、風邪をひくんですけれどね。その、自分の招いた行動、その影響というのが、場合によっては個人よりももっと範囲を広げてとらえるべきことなのかもしれません。


ウィルスを持っていても、発症していないだけというケースがどれだけあるかわかりません。発症しているけれど表沙汰になっていないから誰にも認知されていないだけ、というケースもどれだけあるかわかりません。このウィルスのことが話題になり始めたくらいの頃から、私は「すでに自分はウィルスに接している」「症状がないだけで、とっくに感染している」というイメージを何度も持ちました。


証明することができないリスクの運び手に自分がなっている可能性を濃厚に疑う。それを前提にして行動すべき時期に入ってきたようにも思いました、今回のオリンピック延期うんぬんの都知事の発表や、それを受けた周囲や大きな機関の反応を受けて。縮こまって、あれもこれも禁じられて圧迫されているかのような観念に苛まれ、健康を結果的に害するようなことがあるのはよろしくない、とは思います。お日様のもとでの個人的な散歩は、このタイミングでも好ましいことでしょう。


目に見えないものが、私やあなたに与える影響について、自分の価値観が変わるのを感じます。「ない」ことを証明できない存在、それによるリスクを考慮するということに対して見直しているのです。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎