元気の行き先

オリンピックの延期、平日夜間・週末の外出自粛要請といった都知事の発表が、いよいよ、私のような小市民のもとにまで強く轟いて感じられます。


大変な思いをしている人がいる、深刻な被害を受けている人がいる、ということを受けて、その限りでなく元気のある自分が身を砕いて力を貸そう! とすることすら、今回のことに関していえば、制止されるべきことになりかねないのですね。


もちろん、「力の貸し方」がどんなものかによっては、なんでもかんでも駄目なわけではないはずです。その「力の貸し方」が、逆説的(?)に「無理に力を貸そうと動き回らないこと」だったりする。それが、今回の特徴なのですね。元気にしていることはかまわないのでしょうけれど、「元気を行使しようとやたらと社会に出かけて行って、干渉する」ようなことは、全力で慎むべきなのでしょう。


身体を持った存在だけど、その身体性を行使してはならない。いえ、必ずしも、なんでもかんでもその限りではないのでしょうけれど。そんな中でこそ、インターネット上での、バーチャルな「集い」「ふれあい」「話し合い」の価値を意識します。


身体性の薄れた、バーチャルなアクティビティに飽きたこころを誰もが持っていると仮定して、それへのカウンターとして、ライブだとか、オフ会だとか、さまざまな身体を持ち寄る出し物・催し物を歓迎する機運が一部にあったかもしれません。それがいま、避けて耐え忍ぶべきとされています。


「あの頃は新しかったスタイル」は、順次古くなります。古くなったら、そのうちまた「今でこそ新しいもの」として歓迎される機会もあるかもしれません。現在の流行との共通点を、過去の流行にたやすく見出せがちなように。たとえば、ネットとリアルの世界を、「今はこっちがあつい!」と行ったり来たりするみたいに。しばらくはネットに注目しつつ、人ごみを避けて太陽のもとを散歩しつつ、家族だとか限られた会わざるを得ない人との時間は最高に楽しみつつ、ひとりで暮らしているのだとすればモノやコトや作品とのバーチャルな面会を楽しみつつ、ほどよく身体を動かして、頭をうんとつかって考えて、バランスよく食べてよく寝て、人に会わなくても実現できるものを具現化する、そのために打ち込む。「引きこもる」という言葉に付された後ろめたいイメージは、この機会に払拭されるべきかもしれません。こってりと濃縮された、貴重な時間を。時間に流されるのでなく、流れるように。


それでいて、ゆったりできるところはゆったりいきましょ、と思います。緊迫した現場で戦う従事者や専門家の方々や、現に被害をうけている方々のことを意識しつつ。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎