きょうだいの不和に干渉する吉凶

私は2人の子どもと妻と暮らしています。上の子どもは3歳の男の子、下の子は1歳の男の子です。


2人の子どもは、よくいがみ合っています。いえ、といいますか、よく、上の子が広げたおもちゃに下の子が手を伸ばし、触れたり持ち上げたり位置を変えたりするのですが、そのことをよしとしない上の子どもが、手や足や頭、あるいは全身を使って下の子どもに圧迫をかけることがあるのです。すると、下の子どもは悲鳴をあげます。上の子ども一緒にヒステリックな声をあげます。見ていられなくなって(耳を覆いたくなる声に堪え難くなって)、私が介入して、下の子どもを引きはがすなどして対処してしまいます。私の介入がいつも正しいのかわかりません。1歳の子どもは、上の子どもほどには、論理が理解できない幼さです。


子どもどうしのことですし、ほったらかしにして、なるようになる、させたいようにさせておく手もあるのかなと思います。実際、場合によっては、私は彼らを好きなだけ好きにさせる、放置することもします。私は場合によって対処が変わる、筋の通らない親かもしれません。


上の子どもが触れてほしくないおもちゃに下の子が触れるとか、触れようと近づいていくとかして、それを放置した場合、まぁ108910の割合で、おもちゃを取り上げられて押し倒された下の子が泣きます。なんといいますか、これを、大人の介入で阻止した場合のメリットもあると思うのですが、放置した場合のメリットもあるのじゃないのかなと思います。いえ、この場面設定がそもそも例えとしてふさわしくないかもしれないのは私の過失で、伝わりづらくて申し訳ありません。


ついつい、何か対処をすることが正義だと思いがちだけれど、大局的に、「対処をしない」という対処がもたらす良い影響も、ありえるのじゃないかしらということです。たとえば誰かと誰かの関係において不和が起きるのを、他者が力で解決してしまうこと。もちろん場合によってはその対処こそが望ましく、放置が悪い影響ばかりを残すという例もいくらでもあるとは思います。どちらにせよ、ある問題が起こったとき。その問題が起きている最中で、その時間はさも「なくなってほしい嫌な時間」かのように思えます。でも、その問題こそが未来の当事者を変えてくれる、成長させてくれるとか学ばせてくれるとかいうことがあるのじゃないかと思うのです、ええ、ありませんか? ありますよね?


「静観」を、ごくいつもの姿勢としてやれるという場合もあれば、「静観」するために自分を制するのがとてももどかしかったり、何かしらの我慢を強いたりして、精神的な圧迫を伴うこともあると思います。「静観」も、けっこう、「慣れる」ものでもあるのかもしれません。「慣れ」もまた吉凶です。慣れることで、負担なく風通しのよいこころのままでいられる。これが吉。一方で、慣れることで、思考停止すること、現状に問題を見出そうとする探求行動、それを起こす好奇心、流動性を失うことは凶だと思います。


現状を続けることで、取り返しのつかない失いものがある場合は、断固止めなければなりません。その際の制止にともなう負担に耐える「つよさ」を養うのもまた、日々の自分のおこないひとつひとつであることを思います。あるいは、「鈍さ」か



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎