箒星

お願いが、人の行動を変えることがあるのですね。人が人に対して「お願い」をすることがあると思います。他者がわざわざ干渉してきて、その「お願い」を述べてくると、聞き入れて、自分の行動を大なり小なり変えないといけないなと思うことがあります。ある人の「お願い」が、他者の気持ちを動かし、価値観を変えさせたということでしょう。結果的にそう思っていいかと。


以上は、ある人から他者への「お願い」のパターンですが、これが、自分から自分へのお願いである場合も考えられそうです。これまでは気付かなかったことや、これまでの自分の価値観では思い至らなかった行動の計画や方針を「思考」すれば、その瞬間にその「願い」のもと、論旨は自分自身に伝わっているはずです。いえ、「伝わっている」とするのは本当はおかしいかもしれません。すでにそこに在る、あらかじめ在るのですから。それをわざわざ、自分に対して「お願い」するってどういうことなのでしょうか。これをやろうとすると、やっぱり、ある人から他者に対してするときと同じように、「お願いする自分」と「される自分」を同一の機会・場に立てて、「これこれこういうことを、くれぐれもお願いしますね」と申し付ける時間を設けなければなりません。そうなると、わざわざそんな干渉をするおおげささに(それがたとえ自分から自分への干渉だとしても)、「これはちっとは聞き入れてやらにゃならん事情なんだな」という気持ちや価値観の変化が起こりうるのではないでしょうか。


祈りや祈願の場面を思うとき、私が真っ先に思い至るのが、神社での詣で・お参りです。あれは、神様に対してのお願い・お祈りということになるのでしょう。私も、お参りや詣でを、敬虔に、頻繁にとは決していえませんが、一年に一、二度くらいはすることがあります。そのとき、私は、どうやってお願いやお祈りをしているのでしょうか。それは、こころに、その思念を立ち上げるという作業をすることです。具体的にどういうことかといいますと、あるお願いを日本語(私の母語です)で述べた音声を想像することです。読み上げる原稿そのものがこころの中にある状態での黙読、みたいなものです。あれを、私は、誰に対して申し述べているか? 私は神様を「見かけた」ことがないので、その具体的な姿を想像して、その姿に対して願いを申し上げることはできません。いえ、できるのかもしれませんが、それをしていません。もっと、なんといいますか、天とか空に対して、その意味を含んだことばを「置いている」感じです。地面などのように低いところよりも、どちらかと言えば「高いところ」を想像してる点が不思議です。そして、頭はかるくもたげて、「低く」しています。敬虔でない私にさえ染み付いた、文化や風習の存在を思います。


祈りや願いは、結局、そのことが、自分なり他者なりの行動を変える、感情や価値観に影響を与えるきっかけになるのですね。すべての祈りや願いがそうとも限りませんが、その可能性がありそうです。で、具体的に何をやるか? 今だったら、手洗い、不動で「ノー・3密」の堅守、といったところでしょうか。祈る、願う。ならば、行動を変えよう


祈りや願いなんかどうでもよくて、自分は真っ先に行動を変えているのみだと、あなたは思うかもわかりません。私も、どちらかといえばそうすることの方が多い人間かもしれません。行動のうしろに、祈りや願いが尾を引いている。そうとらえることもできそうです。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎