デマの泉

「近々、都市封鎖をするらしい」


「へぇ。いつから?」


「4月のウンタラカンタラ_」


「どこから聞いた?」


「地元のウンタラホニャララのLINEで_」


「へぇ。まぁ、そういうこともあるかもねぇ_」


私が最近、ある馴染みの音楽関係者とした会話のひとつです。それから、少し時間を置いて、同じ人と再び会話。


「あれはデマだったらしい」


「ああ、そう」


もともと、何かの情報を受け取ってから、自らの反応を濃くしたり、実際に何か行動したりするまでに膨大な質量の時間を要しがちな私。そんな私が変化するには、その情報がデマだという「ことづて」がもたされるまでにかかった時間は短すぎました。「やっぱりね」とは言えない。せいぜい、「あ、そう」くらいのものでした。驚くべきところだったかもしれません。冷静沈着に、何かの決断や選択を迅速にすべきところだったかもわかりません。でも、私にはその必要がありませんでした。


重大な情報がもたらされたら、何が真実かを見極めるために好きなだけ時間をかけられる状況にある人なんて、いったいどれだけいることでしょう。「判断できなくても、決断する」これは、インフラ関係に長く携わる人が私との会話で挙げた言葉です。私が最近、妙に納得した言葉のうちのひとつ。どれだけ時間をかけて情報を吟味したら、正しい判断ができるのか? 情報の真偽を確かめることなしに信用することのあやうさは認めた上で、決断の迅速さがもたらす価値について考えさせられるひと言でした。


やってみることで、「間違えた」「あれは適切でなかった」ということがわかります。撤回や尻拭いがかなうのであれば、どんどん決断して行動して、間違いだったことを知ればいい。ですけれど、無責任のそしりを免れないこともあるでしょう。決断の迅速さが持つ価値は認めつつも、やはりなんでもかんでもというわけにはいきません。特に、人命がかかっている場合など、取り返しがつかない過ちを回避するために消費すべき質量の時間というものもあるでしょう。一方で、その時間を消費している間に失われる人命もあるに違いありません。人命人命といいましたが、ほかの種族の命だってもちろんそうですし、間接的に、ある種族の命運が人類の命運に影響を来すのが道理だと思いますから、結局、命は重大、種族不問です。


で、正しさを選ぶにはあまりにもギリギリすぎる極限のところで、決断と行動を重ねて戦う人に最大の敬意を。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎