ゴミが宝に見える病気

自宅がオフィスがわりの個人事業主さんとかは、この際だからといって在宅ワークがはじまるのでもありません。職場兼自宅、これ日常なり。


私の仕事のうち、企画や連絡を取り合うといったものは在宅でも成り立つように思います。現状それはしておらず、相変わらず出勤しています。自転車で片道10分ちょっとです。電車やバスを利用する必要がないことは、いつも本当に幸せなことだなぁと思っています。いえ、もちろん、電車やバスによる通勤がもたらす「いいこと」もあるはずでしょう、それを否定するつもりはありません。


私の仕事先、つまり職場には利用される「箱」としての機能があります。そこは、現在、お休みということになっています。一般利用ができない、閉じている状態です。一般利用どころか、身内でさえ極力集まらないようにしているのはもちろんです。利用者がいない箱の中で、手付かずで長いこと放置された、ストレージだとかバックヤードみたいな部分に溜まったモノの整理などする。で、まったく予想しなかった意外なものが次から次から出てくる。数十年ぶんの歴史の代謝物たちです。そうしたものたちを、私はついつい手に取って眺めてしまう。楽しくてしかたがありません。今では目にすることができないような貴重なものばかり。捨てたら二度と手に入りません。いえ、近い機能を備えた代替物は手に入るかもしれませんけれど、固有の歴史の代謝物という機能は決してほかの代替品にはつとまりません。


これが、捨てられない性癖の私です。片付けに向かない、のひと言で済ませるのは思考の放棄かもしれませんが、それにしても、ええ、あれもこれもがお宝に見えてしまう病気なのです。骨董品屋でも始めるべき? なんて言ったら、尊敬すべき古今東西の骨董品屋さんを軽んじることになって失礼かもしれません。いや、でも、なんかいいですね、骨董品屋さんって。時代に流されていない感じがすごい。いえ、あえて逆行している? いえ、それでいて、古典や骨董こそが現代そのものであるとも思います。リサイクル屋さんのほうが、もういくぶん、短いサイクルでのランニングを続けているイメージですが、中古品商というのも調べ始めたらそれこそ埃を払う程度では掘りきれない歴史があるのかもしれません。


思考に被さった埃を取り除くには、適したご時勢かもしれません。やろうと思ってやれていなかったことが、もう出てくる出てくるといった有り様です。



お読みいただき、ありがとうございました。




青沼詩郎