情報と浄化作用

在宅仕事も、きついとこあるのじゃないかなと想像します。特に、長く続けば続くほどに。いえ、そんなことをいったら、在宅だろうがなんだろうが、この巣ごもりが長引くことで今にも死にかけたり、すでに手遅れになってしまったりと、そんな事情を抱える人だっていくらでもいるはずなのでしょうけれど。平然と生きている私ですが、たくさんの実害を踏んでいる、その上に立っているのかもしれません。いえ、私のような者でなくとも、生きるというのはつまりそういうことだと思うので、自分をこの意味で責めるようなことは無意味でしょうけれど。


ネットニュースなんぞを、延々と見てしまいます。記事内にリンクがあれば、それも気になってページを移動して、読んで、またそこでリンクを押して移って、読んできりがありませんね。あの、下の方に「関連記事」なんて紹介がリスティングされるホームページ構造が巧みだなと思います。自分がホームページをつくる立場だったとしたら、真似したいことのひとつです。情報にまみれている。そうかもしれません。どっぷりと浸かっている。あらゆるモノが、おのれの身から引きはがされてしまう。そうかもしれません。


野菜の話をします。突然すみません。思いついたのです。野菜の洗い方の話です。あれ、蛇口の下に野菜を差し出して、びちゃびちゃと水に打たせる洗い方をしてしまいがちです。もっといい方法は、大きなボウルと、それにサイズの合ったザルを用意して、そこに洗う野菜を入れます。で、満杯になるまで水を注いで、野菜をゆすって泳がせるのです。葉もの野菜なんか、矮小な羽虫?(黒く小さな体と透明な小さな羽を持った虫です)が浮いてくることもあります(気分を害したらすみません)。水の下に差し出しての「滝行方式」では、料理に混じって、虫ごと口にしてしまっていたかもしれません。いえ、家庭での食事においては、そのことが深刻な事態を招くとは、これっぽっちも私は思わないのも事実ですけれど。


浸かるくらいの物量中に泳げば、その身はきれいになる。これ、情報と人に喩えたらどうなるでしょうか。ある意味、個人の「固執」は剥がれて流れ去るかもしれません。浄化作用です。これが望ましい場合もあるでしょう。たとえば、間違った情報を個人が持っていて、それを頼りに行動の方針を決めていた場合、その情報は引き剥がされたほうが、その個人のためになる可能性は高そうです。といいつつも、勘違いしつづけて生きて何が悪い? という反論も、自ずと思いつきます。その通り、それが必ずしも悪いとは思いません。勘違いをし続けることイコール不幸だなんて、口が曲がっても言わないし、まっすぐの口でならなおさらです。


個人が持っている情報が間違っていない、その人の望まない方向に引っ張ることがないものだったり、むしろ望みのほうに導くものだったりした場合、それは、引き剥がさないほうが有用です。たとえば、間違いも含んだじゃぶじゃぶの情報の海に浸かって、引き剥がされて、間違った情報の方がからだにまとわりついて残ってしまうようなことはよろしくなさそうです。


じゃぶじゃぶの海に浸かっても、確信しているものをぐっと掴んで離さないでいられるのなら。まだ、手に空きがあって、もっと多くの有用なものをつかみ取れるのであれば、そうした海に飛び込んで行くことこそ冒険であり、現実を豊かにしえるとも思います。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎