悠久のいないいないばあ

幼い息子がいる。ある日、母親である妻が外出のため、父親である私が彼と過ごすことになる。すると、妻が出て行くときに、泣くわ、泣くわ。なんとか彼女から息子を引きはがして、妻に出発してもらう。するとどうか、お湯につけた乾燥わかめみたいに、さほど時間を要さずに、高まった息子のヒステリーがほぐれて、いつのまにかごきげんに遊び出している。


母親に執着したかと思えば、目の前の景色からなくなったものは、気にならなくなってしまうのか。あるおもちゃだって、一時はあんなに気に入って遊んでいたのに、あるとき、どこかの箱に片付けてからというものそのおもちゃの姿を見なくなって、「今なら、このおもちゃ、勝手に捨てても息子は絶対に気付かないよね」なんて、妻と話したりもする。きれいなおもちゃならまだいいが、汚れたどんぐりを宝物として持ち帰り、どこかに置いて、さほど長くもない時間のうちにそこにあるどんぐりのことを息子は忘れてしまうことがある。そっとしておけばいいと思う一方、妻との話し合いの結果「はやく処分したい」となる場合もある。


母親が出かけるときに起こしたヒステリーを、息子はやがて忘れる。けれど、目の前の景色からいなくなった母親の存在を忘れたわけじゃない。いくらかの時間を遊んで過ごしたのち、やはり言い出す。「はやく、(母親に)帰ってきてほしい」と。私には「うん、そうだね」「時計の針がここまで来たら、帰ってくるよ」などとしか言えない。息子は、なおも「帰ってきてほしい」を繰り返す。


もっと息子が幼い頃、ことばを使えない乳児くらいの頃だったら、母親の外出にヒステリーを起こすこともなかった。目の前の景色に何が存在して、何が存在しないのか。それすら分かっていなかったのか? なんてことはさすがにないとは思うが、目の前の母親が外出すると、一定のまとまった時間、会えなくなるという未来との関連までは分からなかったのかもしれない。物心つくのがまだの幼い子は、母親の外出に反抗しない。目の前の景色の変化と、近距離・遠距離の未来の光景との関連を想像する力が弱いのだろう。


息子やら乳児やらがなんだかんだと言ったけれど、私だって似たようなものだと思う。いつの間にかなくなってしまったことを、忘れてしまう。しまい込んで、普段目にする機会がなくなったものを忘れてしまう。


誰かが勝手に捨てたら、もう二度と認知することのなかったかもしれない存在との再会を、片付けの最中に果たすことがある。予期せぬ再会だが、これをしまい込んだときには想像したのだろうか、「また会う日まで」などと。遠い未来を想像できれば、予期できた再会だろう。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎