空想を実像にする行動

ここのところ、風邪をひきにくくなったように思います。以前でしたら、たとえばちょっと体に負担をかけて働いた日だとか、つい夜更かししてしまった日だとかを過ごして、眠って起きると、すぐに喉が痛くなったり鼻が詰まったりしていました。それが最近、ないのです。どうやら、注目の新型ウィルス以外の、あらゆる一般的な風邪の原因になる雑多な菌やらウィルスの往来も、このところの人々の動向(その少なさ)のおかげで減っているのかもしれません。ちょっと無理したり、疲れたりした私の身体にそれらの原因菌・ウィルスがいると、かつてはすぐに身体に症状を来たしていたです。私の憶測ですけれど。それが、最近ないなぁと。


今の状況なりの働き方で、私はやっぱり身体や頭をつかって働きもします。でも、仕事の性質上、かつては雑多な人の往来と接触の多い状況でした。それが、いまはクローズドなスタイルにシフトしています。今の自分は、以前に比べればだいぶ、あらゆる菌の往来が減った状況で生活しているように思います。


家族がいるのがありがたいです。一人だったら、私は、家での時間を、とことん自堕落にしたかもしれません。もちろん、自分の未来を建設的なものにするための活動に最低限の時間をとったとは思います。ですが、それ以外の余暇を肥大させ、現状とはだいぶ違うやり方で浪費したかもなぁとも思います。


話す相手、顔を合わせる相手がいないと、寂しくなったかもしれません。家の外にそれを求めて、バランスをとる独身者が私だったら、このところの日々の生活に抱くイメージはもういくぶん「暗い」ものだったかもなぁとも思います。現状は、家にいる時間が増えて、幼児の息子らと接する時間も増えました。彼らはよく笑います。そのちいさな身体を持ち上げて、振り回して、ふとんに投げつけると大喜びです。


未来には幅があります。イメージが今の自分を左右するなら、自分の望みに近い未来のイメージを持つことで、いまを過ごす元気が保てるのかもしれません。可能性がある未来として、最悪の場合から、運良くひょいひょい行った未来までさまざまです。多くの場合、そのどちらも裏切られて、まったく想像もしなかったことになるようにも思います。どうせ思い通りにならないのなら、はじめからいいイメージを持てばいいじゃないと、私の中の一人がいう。別の私が、「きみは楽観的すぎる。危機管理がなっていない」と反論する。板挟みになっておろおろする私。ちょっと離れたところで空想する私。歌ったり楽器を触ったり、勝手にしている私。息子を振り回してよろこんでいる私。


例えば、いつまでも「卒業」しない学校はありません。あのときの同級生とだけ、いつまでも楽しく学校生活をしてたかった? とは私は思いません。つい最近まで、当たり前だった楽しみや幸せのスタイルは、状況によって変化していきます。もちろん、変わらずに続いていく部分もあるでしょう。おだやかな接合を経たうえでの変化もあるでしょう。部分や場合によっては、急激すぎる変化を強いられることだってもちろんあるでしょう。


価値観の変革をともなったうえで、幸せの多い未来を空想。空(から)のままじゃさみしいから、実像にするために行動。いま、できることは限られるかもしれません。でも、限られていないときなんて、かつてにだって、あったかしら? やれることがないのとは違うはず。これは楽観でしょうか? それでもいいと思っている私がいます。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎