猪突猛進な潔癖

昨日、桜を見ました。


私は東京に住んでいます。だから、桜は季節はずれのはずだと思われるでしょうか。


すこし、種類の違う桜のようなのです。


いわゆる桜、ソメイヨシノというのでしょうか。確かにあれのピークは、見頃は、とっくに過ぎてしまいました。


いま、この頃の関東で見ることのできる桜は、ソメイヨシノとはいくぶんちがう桜なのかもしれません。葉っぱまじりで、緑と淡いピンクの割合が半々くらいのものでしたが、房が大きく花ぶりもなかなか見事なものでした。それを、幼児ふたりを乗せた自転車を信号待ちで止めているときに私は見たのです。


あまり行かない公園に行ってきました。幼児二人は初めての公園でした。私はといえば、過去に二度だけ、来たことのある公園でした。そういえば、そのうちの一度は、友人とのお花見で来たのだったなと思い出しました。川沿いに桜が並ぶ公園でした。そこを訪れて、私は普段あまり飲まない酒が飲みたくなりました。不思議な反射神経でした。


川沿いではバーベキューをする人もいる、そんな公園のようでした。けれど昨日は、川沿いの柵に横断幕がかけられていました。そこには「バーベキュー等は自粛願います」とありました。日光浴したり、川に足をつけて遊ぶ子どもたちはいましたが、バーベキューしている人の姿はありませんでした。


この情勢が長く続く気配を私は感じています。「とにかく今は止まろう」その方針を守ることの重要性を思います。その一方で、だからこそ冷静になって止まる・止まらないの判断、取捨選択をすべきだと思いました。


たとえば、この川沿いの公園に来ること。そこで、人たちが、一定の間隔を保って散策や、滞在を楽しむこと。それは、私は好ましいことだと思います。


ステイ・アット・ホームの方針を「潔癖」に守ることに躍起になって、とにかく家にだけ居続けなければならない、一歩だって外へ出てはならない、一切他の人が行き交うような場面へ自ら出かけていってはならない、というのはやりすぎに思えます。つまり、いわゆる「三密」を避けた形での楽しみは、むしろ励行されてもいいくらいに私は思うのです。励行は言い過ぎかもしれませんが、それを楽しむ人をやっかんだり、責めたり、非国民みたいな誹り方をするのはやめてほしいと思います。社会的にそういう風潮が生じつつあるのもどうかと思います。だって、ほんとうにきちんと「三密」を避けられていさえすれば、その楽しみが直接の原因で感染したりしないのですから。


そうはいっても、人間だから、滞在や散策や楽しみの最中に油断が生まれて、「三密回避」を一瞬でも破らないとも限らないじゃないかと、そう言われればそうです。


でも、例えばの話をします。ひとたび外を歩いたら、交通事故のリスクってゼロじゃないですよね。(といいますか、家にいたって、飛行機が墜落してくる可能性だってゼロじゃない。)リスクがわずかでもあるから、一切そのリスクを生じさせうる行為をやめようというのは行き過ぎです。どこかで、リスクとリターンの両方を承知して何かをする必要があります。その線引きを、冷静になってやろうよという提案です。冷静さを失って、リスクとリターンの大きさを、色眼鏡をかけずに、下駄をはかせずに見ることをせずに、「全部駄目!」では、長期の自粛は無理です。どこかで崩壊すると思います。すでに起きていることかもしれません。


なんて提案をすると、「お前は医療従事者や福祉(そのほか私がここで想像の至らないあらゆる分野)の深刻な現状を微塵もわかっちゃいないからそんなことが言えるのだ」と言われてしまうかもしれません。おっしゃるとおり、今の私に見えるのは、今の私がいるところから確保できる視界にあるものごとだけです。


すべてを見通しきることなんて、いついかなるときにも、誰にだってできやしません。私も、あなたも、いつかどこかで、部分的に間違うことがあるでしょう。何もしなさすぎたという間違いだってもちろんあるはずです。


すべてが崩壊して、すべてが変わるわけでもない。「これまでに大切にしてきたものごとのいいところ」と、このところわかってきた、「これから目指すべきいいこと」のバランスを見て、生きていくことになるはずです。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎