写すんです

遠足に、「写ルンです」を持って行った思い出があります。私が中学生くらいのときのことだったか。1986年うまれの私なので、〜2000年くらいのことだったでしょうか。


フィルムが中に入っていて、一枚撮るたびに、「ジキッ ジキッ ジキッ」と音を立てて、本体のショルダーに付いた、フィルムを送るための歯車のような部品を、親指で外側に滑らせるように熱心に回しました。


写真は、現像が済まなきゃ、どんなものが撮れたのかわかりません。もちろん、カメラを向けた方向、シャッターを押した瞬間、そちらにどのような光景があったのかの記憶で、なんの写真を撮ろうとしたのか、ある程度はあらかじめわかります。ですが、印画があがるまで、最終的な仕上がりはわかりかねます。ここが、おもしろいですね。


目指すものがあります。イメージします、その像を持ちます、自分の中に。で、それに向かう意志を持ちます。その意志で、じぶんの身体をあやつります。思考します。試行します。で、できあがるものがあります。何かしらの結果が得られます。その実像が、当初のイメージと近いか遠いかわかりません。近いほどに、自分の想像の精度が高かったともいえそうです。でも、遠かったからといって、出来上がったものに価値がないともかぎりません。むしろ、想像を越えた素敵なものになった! という場合もあるでしょう。私はたまらなく、そういうものが好きなんじゃないかな。あなたにも、そういうところありませんか?


電車を通す前に、鉄道を敷く必要があります。道を引いたら(仮に無事に引けたなら)、どこからどこまで行けるのかは明らかです。その道を、何が行き来するのか。行き来することで可能になるものは何か。そういうものを、今まで以上に考えるべきこの頃な気がします。だって、「行き来」の精度がすごく高まったからです。A駅で電車に乗って、B駅に行けるということは、わかりきっている。そうでない時代もあったかもしれなくて、その時代においては、その行路自体が冒険だったかもしれません。


行程は、確実になぞられる。ならば、その行程で何を可能にするのかが、人に託された仕事なのかもしれません。責任持ってやらなくちゃなぁ。私に足りていないものです。いつの時代の私にも足りていないから、ずっと足りないままかもしれませんけれど。どこに道を敷けるのか、どこまで敷けるのか。それが敷けて行き来がかんたんになったら、それで何をしようか? 完成とは過去ですね。そして道を敷くこと自体が、いちばんたいへんだ。




お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎