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少年性

少年や少女が活躍したりしなかったりするさまを、ありのままに描いた作品。そういうものを、ジュブナイルとでもいうのでしょうかね。


そのへんのことを意識すると、タイトルを思い出すのが『十五少年漂流記』。私自身が少年だった頃に読みましたが、話は、正直あまり覚えていません。どんな冒険譚だったかな。


大人になってから、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読みました。これも、ひょっとしたら、ジュブナイルととらえるのもありなのでしょうかね。登場人物の「ベッポじいさん」は、年齢としては少年とは違うかもしれませんが、奥行きのあるせりふを放つキャラだったことが強く印象づけられています。


ところで、我が家の、4歳になったばかりの息子が、おとなりのお家のお父さんと仲良しなのです。ベランダから息子は気軽におとなりのお父さんに声をかけます。2人の仲は、なんといいますか、ただの隣人というよりは「ともだち」だというのがふさわしい感じがするのです。ご本人たちも、きっとそんな気でいるんじゃないかな。なんでか、そう思います。


「少年性」みたいなものは、べつに、実際に年齢的に「少年」でなくとも、持てるのでしょうね。大人になってから読んで楽しんだ私にとっての『モモ』ですが、こどもの頃に読んだら、また違ったことを思ったんだろうな。当然のことでしょうけれど。


大人になると「少年」ではなくなるわけですけれど、むしろ、「少年性」を客観的に知ることができるのではないでしょうか。当事者であるうちには、その概念がなかなかわからないのです。少年である自分自身の姿らしきものを鏡に映すことはできるけれど、その実像である自分は、少年性と癒着してしまって境目がわからないのです。その存在は、本人のもとにあったとしても。


そう、大人になると、すこし、いくぶん、その境目がわかるようになる、という程度なのでしょう。


一方で、それを勝手に区別しているだけともいえそうです。大人は、単に、「少年性」をそれとして区別している、というだけなのです。


息子のおともだち兼おとなりのお父さんだって、私自身だって、息子だって、みな、少年性を持っている。少年の容姿をしているかどうかは別ですけれど。


どういうわけか、「少年性」が写真にうつり込むことってあるんじゃないかと思います。適当なことを私はいま言っているかもしれません。容姿そのものではなく、その人の「おこない」にちらつくものなんじゃないかしらとも思います。ずぶぬれになって水で遊んじゃったりとか、半ズボンで積もった雪を投げ合うとか。これは例えのごく一部ですけれど。


支配や保護を受ける対象だったからこそ、感じたつらさや不自由さ、理不尽さや悔しさ。いろいろあったようにも思います。それを、そのまま当事者として愚痴るのではなく、明るくたのしく話せるとしたら、大人になった「いま」なんじゃないかとも思います。


お読みいただき、ありがとうございました。


青沼詩郎