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好きなことを始めてから、考えればいい。

なんか、すごくいいキャッチコピーみたいなのを思いついたとします。ギャグでも、心に刺さる詩でも、箴言でも名言でもかまいません。絵でもイラストでもいいでしょう。


で、それ、いいね! とか思ったりする、言ったりもする。


ノリで、


Tシャツにでもする?」


「いいねー欲しいかも。」


なんて言ったりもする。


そこで、終われば、何も起きません。


ひとりで、メディアをみていると、この、「何も起こさず完結」型のあいづちばかりしていることに気付きます。


これを、友達と会っている最中に、対話や会話としてやっていると、話だけだったのがほんとうのことになりやすい気がする。


「でもTシャツつくんのなんて大変だよねー」


「え、めっちゃ簡単にできるっぽいよ」


「なにそれ」


「ネットショップ開けるサイト、最近あるじゃん。」


「あー、なんか流行ってるっぽい」


「データあればグッズとか簡単につくって売れるらしい」


「すげーな。まじでやる?」


・・・・・・


なんて、友達ノリから生まれたモノやサービスなんかも、この世には多いのかもしれません、案外。


このTシャツのたとえ話にしたって、そのネットショップの提供するサービスという、「アクションのテンプレ」がそもそもあったから軌道に乗って行った話かもしれません。


にしたって、何もやらないで、「ほんとにTシャツつくらずに、売りもせずに、終わった話」よりは、100倍、1000倍、おもしろい実話がかならず生まれることでしょう。


ほんとに例えばTシャツつくるなら、どんなデザインにするか? ことば? イラスト? ロゴ? Tシャツのかたちは? 色は? 何から何まで決めなきゃいけません。(「特定商取引法に準ずる表記」に載せる住所どうする? 代理公開のサービスつかう? それとも覚悟決めて自宅にする? とか)「ほんとにやる」となると、細かいことで、決めて、モンダイの波を押しのけて進んでいかなきゃならないことがイッッパイ出てきます。


「きみの言うことを実現したうえで、それ以上に面白くなるかもしれないチャレンジは、ずばりTシャツづくりだ!」と決めて、実行。これはホンモノの「経験」になるでしょう。けれど、あいづちをうって「いいね!」って言っているだけでは、ただの観客。


そんな観客でいながら、いつも、「プレイしたい」「プレイする場所が欲しい」なんて言っている。言っているだけじゃ、いつまで経っても観客なのに。プレイヤーになりたいのに、プレイしないでいる。それじゃ、プレイヤーにはなれないのは当たり前なのに。そんなことにさえ気付かずに、どんどん日々を暮らしてしまう。そんな自分を思います。


私はいま、ブログサイトをつくっています。


これまでの私は、すでにあるプラットフォームのみを使ってきたように思います。たとえばSNSなどがそうですね。使いやすさも、そこから広がるつながりや可能性さえも、すでに準備されている感じです。もちろん、使う人がどう使うかで、その可能性は×無限大でしょうけれど。(だからこそ、これだけ普及し、大きくなった。)


もちろん、じぶんでブログサイトを立ち上げることだって、広義にはすでに用意されたソースや道筋をつかうことに違いありません。


でも、それはただの「あいづち」では決してない。ただ観客でいる以上のことだと思います。サッカーやラグビーというスポーツがまずあって、それをプレイする人になることのように、です。


もちろん、自分で、「今後、無限に思えるくらい多くの人が親しみ、プレイすることになるプラットフォームをつくること」は、そりゃすごいと思います。「GAFA」なんてひとくくりにいわれる、それらを立ち上げた人たちなんかがそういう開拓者かもしれません。


私のトライは、小さいかもしれない。


けれど、ちくちくせくせく、毎日少しずつでも何かやるのみなのです。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎