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接合の量

しばしば思い出すのが、東日本大震災直後からしばらくのあいだ、どこもかしこも節電ムードだったことです。コンビニの蛍光灯。幹線道路に向かって存在をアピールする、お店の電光つきの看板。見慣れた景色の中から、電気による光量の多くが消えました。


熱心に、節電したのです。私のような鈍感な輩も「あっ」と気付くのに十分な程度で、社会の景色が変化したのです。


それから、時間が経って、だんだんと、節電のムードは溶けて消えていくかのように、目立たなくなっていきました。


節電しようという意識は、潰えてしまったのか? 今でも、どこかに、その意識が現れることがないとはいいません。でも、それを、変化として感じ取る機会は、少ないかもしれないと思います。あるいは、かつてよりはるかに少ないエネルギーで、かつてよりも光量が得られる発明が、あれから、たくさんなされたというのもあるかもしれません。それにあたるかわかりませんが、LED電球が普及したと思います。人工的な光量に限らず、かつてよりも少ないエネルギーで、より多くのシゴトをこなしてくれる、そんな「うつわ」は日々生まれていることでしょう。


リモートワークとか、オンラインでの会議やら集会とか。こういったものも、じきに、目立たなくなるのかもしれません。それは、その存在を私が意識することが減るというだけで、社会になじむ部分が多いのかもしれません。安価でより高性能な機器の普及が、それを手伝うかもしれません。あるいは、実際に、「ムード」が去ることで、淘汰されて元に戻っていく部分もあるのかもしれません。そのへんの接合がなされながら、社会が、なまものとして、うごめき続けるのだろうと思います。


ひところの時代を、写真で撮ったみたいにして切り取って、出来る限り最新の状況と比べてみると、その変化に気付けることも多いでしょう。その気付きの量だけ、うまいこといつのまにか「接合された量」が存在しているのです、きっと。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎