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気の緩みは、そもそもただの同調だったかもしれない。

気って、緩みますよね。なんででしょうね。その必要を、感じなくなってしまうのでしょうか。もう、危機的な状況、「ヤバイ!」「本当のピンチ!」は過ぎたと思うのでしょうか。で、それに対峙する際の態度を緩めてしまうのです。もういいよね、と。


暑くなってきたので、マスクの息苦しさ、着用の不快さが私の身辺で話題になることが増えました。私はもともと、ちょっと息苦しいくらいは好きという輩なので、マスクの暑さや息苦しさは割と平気なのですが。乾湿問わず、サウナとかも好きです(関係ありませんが)。


危機をしのぐために、大変な思いをしたり、注意を割いて行動していたとしても、その危機がだんだん小さくなると、その危機を退けるための労力をけちりはじめます。「その危機が小さくなってきた」は、ただの思い込みかもしれないのに。単に、「意識から遠ざかった」だけかもしれません。「最近のできごと」に関心は強いが、時間とともに風化してしまうのでしょうか。


つい、私は同調しがちです。自分は率直にどう思うか? それがあるはずなのに。それなのに、自分と同じような反応をする人は確かにいるか? 自分は外れていないか? 変じゃないか? それを確かめてからじゃないと、反応を「見せる」ことすらためらってしまいがちなのです。


自分が大事だと思ってしていることは、続きます。まわりがどう思っていようと、私はそれが大事なんだから。変な目で見られたって、気にしません。自分にとって大事なものに比べたら、奇異の視線くらいは屁でもないのです。


まわりがさも大事そうにするので、自分もなびいてそれを始めてみた、ということがあるとして、その寿命は短そうです。自分で本当に必要を実感して、実現に向かって動くのでなきゃ。


「あなたはどうなの?」を、人まかせにし続けていたとしたら、特に今の時期はつらいだろうなぁ。いえ、人のこと言えた身じゃないですけれども。それなりに元気でやっています。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎