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道をふさぐ岩があったらどうするか

「ウマい話」は、すぐ疑いたくなってしまいます。そんな「ちょいちょい」で、簡単においしい思いができるはずがないやろー! と、距離をおいてしまうのです。「ボロい話」といいますか、「チョロい話」といいますか。そういうものを、つい遠ざけてしまいがちです。


かといって、「ちょいちょい」じゃなくって、心の骨も体の骨も根底からバキバキに折るような苦痛が成果を引き寄せるというのも、確かにおかしな話です。苦労しただけ、うまくいくかは怪しいです。


「等価交換」のことをよく思います。なにか、エネルギーを費やしたら、そのぶんだけものごとが動くのです。ものごとを動かすには、それに見合ったぶんだけのエネルギーが必要だということです。


この、「エネルギーの費やし方」がいかなるものかが問題なのだろうなと思います。


たとえば、行きたい進路をふさぐ巨大な岩があったとします。


目的は、岩の向こうへ進むこと。


このとき、どうするか。


・指で、がりがり岩をひっかく

・ノミと金槌で岩を削る

・発動機の付いた掘削機を用意して、岩を破壊する

・岩をのぼっちゃう

・岩を迂回しちゃう


これだけ見ても、苦痛やダメージが大きければ、成果が比例して得られるわけではないのは明白です。


なのに、つい、岩と素手で勝負しようとしたり、ノミと金槌でカンカンやったりしがちなのが私です。


確かに、発動機つきの掘削機を手に入れるために、専門的な筋にあたってみたり、借りたり買ったりする資金を用意したりするのはちょっと大変かもしれません。その用意にかかるエネルギーよりは、家のガレージだか引き出しだかに入っているノミと金槌を出してくる(ホームセンターでちょろっと買ってくる)方がかんたんかもしれません。でも、相手が巨岩なんだったら、そもそもノミと金槌で戦うなよってところですよね。目的を忘れています。巨岩と戦うのが目的じゃなくて、巨岩の向こうへ行くこと、そちらへ進み続けることが目的だったはずです。


ところで、苦いものは不味いでしょうか。苦いものは必ずしも、毒だったり、不要なものだったり、害悪だったりするでしょうか。


ビールが苦いくて嫌いな人は、ジョッキ一杯飲み干すのは苦痛でしょう。でも、ビールが好きな人だったら、380円くらい自分で払って飲むかもしれません。


そもそも、その所作は、そのおこないにかかるエネルギーは、苦痛なのか? ここが、人によって、感じ方やとらえかた、認識が違うのでしょう。


よく、「天才は、努力を努力とも思わない」みたいな話聞きませんか?


ほかの人からしたら、おもしろくないどころか、苦しいことかもしれないことを、別のある人は嬉々として夢中になってやっている。べつに天才うんぬんじゃなくても、そういうことって多いのではないでしょうか。認識やとらえ方が違う者どうしは、そもそも見ているものが違うのではないでしょうか。


目的が、「岩をノミと金槌でカンカンする」こと自体だったら、別に、岩の向こうに行かなくたってかまいません。でも、岩の向こうに譲れないもの、のぞみのものごとがある場合は、岩なんかにかまっている時間や労力は少しでも小さいほうがいいはずです。だから、岩の向こうを見て、いま岩の問題をクリアする、最も効率のよいやりかたを、俯瞰して、賢明に判断し、実行できる。見ているものが違えば、判断も違ってくるのです。


今までの私は、何を見て、行動してきたんだろう。そんなことを考える時間を少しは与えられた連休だったなと思います。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎