「食」体験の飛躍

みんな、食事から栄養を摂っている。


医療行為を受けているとか特殊な事情がなければ、みんなそうだ。


あそこの店の〇〇が美味しいとか、食事の好みが合うと誰とでも盛り上がれるのは、まずひとつ、誰もが毎日おこなう普遍的な行為だからだろう。


体調によって、そのときそのとき食べたいものは違ってくる。


胃が疲れているときに、丼からはみ出さんばかりのコッテリラーメンを食べたいとは思えない。


ひとりひとりがそのときによって違ったコンディションを抱えて歩いている。


それなのに、「あそこの〇〇は美味いよね!」なんて言い合える。


なにも、毎日いかなる体調のときでも食べ続けられるものである必要はない。


一度でも、食べて満足した経験がありさえすれば、その品はその人の好物となりうる。


むしろ口にするのが多少なりとも貴重な品の方が、そうした話題にのぼりやすいともいえる。


僕は牛乳やヨーグルトを頻繁に口にするが、あまり他人とそれについて熱く語らうようなことはない。


しかしお気に入りのラーメン屋さんの作り方のヒミツの話なんかを、同じラーメンが好きな人と教え合ったりすると、とっても盛り上がる。それならあの店のあれも好きなんじゃないか、なんて話が他の店に飛び火もする。


毎日飲み食いする牛乳や卵の製法や牧場のヒミツなんかもきっと、僕の知らない興味深いことはたくさんあると思う。


しかしいかんせん、加工はされていても調理前の「素材」としての側面が大きい。


どう用いるかという、人間の工夫。職人や生活人のひと手間が、そこに入ることでどう変わるか、どんな結果がもたらされるか。これが大きいように思う。


農家が労力をかけて生産した素材を、おのおのがふさわしい形に変えていく。そうした調理、工夫を経たものを、素敵な店で、毎日のテーブルで味わう。誰かとその場をシェアしてもいいし、そこに時間差があってもいいだろう。


「ヨーロッパに留学していた貧乏時代に、塩、油、唐辛子、にんにく、パスタだけで作ったペペロンチーノを毎日のよう食べていた」なんて話をどこかで見聞きしたことを思い出す。僕の話ではないのだが、そのペペロンチーノが臨場感をもって僕の頭に立ち現れるのはなぜだろう。非常に美味そうだなぁと思える。



「食」というコンテンツの揺るがなさ、その地盤の強さを思うことが頻繁にある。


「食」に関わらな人はいないからだろう。


無限に派生する体験のスタート地点。


そこからの道中で一緒になったり、かつて通った道を誰かが通る。


あそこはああだったよね!


俺が行ったときはこうだった。


共通する観光地や出身地の記憶を、振り返るみたいに。


「食」体験は、時間も場所も飛び越えて、誰もが持ち寄れるものなのだ。