カレンダー

予定を決めないで動く、というのはある意味高度な技術というか、生き慣れた人にできることのように思う。


スケジュールや計画をキッチリ決めて動くことは、他人の目から見ても共有しやすいというメリットがある。決まった長さのものさしに決まった間隔で目もりが刻まれていて、そこに対してスケジュールを書き込んでいくようなものである。


どこからどこまでがどれくらいの距離か、ということが、見る人によって伸び縮みしないので(いや、実際はするかもしれない。ここではその話はやめておく)、安心して付き合える人、信頼に足る人物、と思われやすいのはスケジュールや計画をキッチリ提示するやり方なのかもしれない。



ところで、方眼紙に絵を描く人はいない。


(もちろん「方眼紙に描く」という作品があっても良い)


まっさらなキャンバスに、自分の目で見て、どこからどこまで線を描くのかといった判断を一手一手積み重ねながら、1枚の絵が仕上げられていく。


一手一手進むわけだけど、もちろん描く人にはある程度完成のイメージがあったりして、いちいち経過を言葉にして宣言したり、計画書に書いて上司に提出したりなんてことはせずとも、それに向かって進んでいくことができる。


1枚の絵が、ひとりの芸術家による、ひとつの芸術のためのもの。


それに終始するからこそ、それでいいのだろう。


1つの事業が、多くの人の関わる会社による、利益のためのものだったりすると、なかなかそうもいかないのだろう。


統率をとって、打算的に動いていく必要がどうしても出てくる。


それぞれがちょっとずつ(あるいは多大に)違った考えや方向性を持っていつつも、最終的に行き着くひとつのわかりやすい目安がお金だったりして、それでもって動いていくのが社会というものの一面であるようにも思う。



ところで、僕はクリックを使わない。


なんの話かというと、音楽の録音の時に用いられる、テンポを一定に保つための目安となるガイド(メトロノーム)のことである。(それをクリックと呼ぶ)


これを使ってテンポを安定させたり、一定のテンポをメンバー間で共有することで、レコーディングが円滑に進められる。


のであるが、演り慣れた人であれば、特に必要ない。逆に邪魔だったり、余計なものだったりもする。


クリックを利用する場合でも、作品の完成形となるものに、そのクリックの音は含められない場合がほとんどである。あくまでガイドなのだ。先程の話に触れて話せば、要は方眼紙に絵を描いて、最後に魔法のように方眼マスだけを消し去ってしまうのである。


僕は街を歩いていたり、カフェなんかで流れている音楽(商品として世に出回っているもの)を耳にして、「消し去られたクリック」の存在を感じることがしばしばある。完成形に含められていなくても、わかるのである。ただ「使ったんだろうな」と思うだけなのであるが、同時にどこか興ざめしてしまう気持ちが心の片隅に小さく顔を出す。


安定していること。誰が見ても(聴いても)等間隔であること。


それらが至上のものであるかのような取り違えを、僕はしばしばこの世の中に感じる。


本来は僕たちの行きたい場所、たどり着きたい目的地までの道のりを、安全で快適かつ豊かにするための、地図や方位磁針のようなものとして生み出されたはずである。


「道具」や「やり方、システム」が進むほどに、生み出した側であるはずの人間が振り回されたり窮屈な思いをする状況が出てくるのは、嘆かわしい。


自分たちが生み出した道具、生活を助けるガイドとも、いつも適正な距離感を持って自分で動くことができる。


それが生き慣れて獲得する自由だ。


予定を書き込んだ手帳を持ち歩くのも良いが、手帳は心の中にも持てるということを覚えておきたい。