あと30分あったら、スパイスミックスをつくりたい。

すべてのことに対応することはできない。
 
時間はひとりひとりにきっかり、1日24時間だ。(たぶん)
 
1日が24時間30分だったら、やりたいのになぁと思いながらほったらかしになっていることがある。現実は1日24時間なので、いつまで経ってもほったらかしになっている。
 
大人になるにつれ、知るということはふえていく。一方で1日は24時間のままだから、知ったものすべてに取り組むことはできない。「知りっぱなし」で黙認することになる。
 
直接取り組むことはできないけれど、限られた1日24時間の取り組みに、新しく知ったことをスパイスのように風味をプラスするくらいのことならできるだろう。1日24時間という皿の大きさは変わらないけれど、スパイスはあまりかさばらない。(ちいさく挽いて粉にすれば)
 
大人になるほどに、そのスパイスのミックスが独自なものになっていくだろう。時間の経過による、香りや風味の「馴染み」「落ち着き」みたいなものもあらわれてくると思う。一度プラスしてミックスしてしまったものは、全体から取り除くことは困難だ。顕微鏡で粒子をひと粒ひと粒やっつけるようなことはなかなかできない。皿の容量には限界があるから、全体から脱落した量に対して新たな配合を補充することで、調整するしかない。失敗しても成功しても、しばらくその影響が残るのだ。急に記憶喪失になってすべてが入れ替わってしまうなんてことはない。(経験がないだけ)
 
知るということには、質量があまりないのだろうか。歳を重ねるほどに、皿の上は豊かになる。いくら知っても、もっと知れる。忘れてしまうこともあるけれど、その中のいくつかは思い出せる。誰かに取り分けて食べてもらって、自分でもその味を確かめながら、皿の上にあれこれ創意工夫をこころみる。
 
あと30分あったら、中くらいのビンに新しいスパイスミックスを作りたい。そつ思いながら、キッチンにある「赤缶」で済ませてしまっているこの頃。「赤缶」もひとつの(あるいは多くの)人生だ。皿に盛り付けたカレー風味の炒めものをフーフー冷ましてつっつきながら、もしゃもしゃとあごを動かしているうちにも30分は過ぎていく。「1日24時間の取り組みの皿の上」を考えていても、目の前の皿はあいていく。この皿の上の食材も、それぞれに24時間を過ごしていたものたちだった。潤沢ないのちで、まいにちをつなぐ僕らである。