熱狂と狂信の会合

やらずにおれないことが、あります。僕の場合は、音楽でしょうか。毎日かならず時間をつくって、やるようにしています。つとめてそうしておるのですが、同時に「やらずにおれない」のです。矛盾しているでしょうか。

「熱狂的な」「狂信的な」といった形容があったりします。熱っぽく狂わずにはおれないのでしょうし、狂ったように信じずにはおれないのでしょう。僕にとって音楽が、熱狂や狂信の対象かというと、そうではないように思うのですが、別の人から見てみれば、毎日やらずにおれないほどに入れあげており、熱狂や狂信の対象になっているとみてまず間違いない…というふうにとらえられてもおかしくありません。

この熱狂や狂信が、対象に届いて欲しい。届くか届かないかわからないけれど、そうせずにはおれない。ははぁ。かつてビートルズに狂ったように奇声を浴びせたファンたちのその行為も、僕が毎日音楽にいそしむ一連の行動も、そうかけ離れたものではないのかもしれません。僕の目にはビートルズに絶叫を浴びせるファンたちの行為が奇特に映るかもしれませんし、彼ら彼女らから見れば僕の日頃の行動もまた奇特に映るのかもしれません。しかし、それらの行為の根本的な動機にどれほどの違いがあるのかと、ふと立ち止まって考えてみたくもなります。幸か不幸か、僕の奇特なそれとビートルズファンの奇特なそれを持ち寄って、同じとき・同じ場所で見せあうことはかないません。あう(会う・合う)ということは、一方だけの都合ではかなわないのです。

インターネット上で、文字やら情報やらのやりとりが可能です。でもどこまでいっても、インターネットを介している限りは、そのやりとりは間接的なものという域を出ることはありません。自分の発するものと相手の発するものを、直接あって(会って・合って)やりとりをする、会合。僕たちが肉体を持った存在である限り、その価値が失われることはないでしょう。

ものを大事にすることは、僕を、あなたを尊重すること。