ぼんやりしたあほ面の、ちょっといいやつ

わたしは、すぐ自意識に支配されてしまいがちです。たとえばだれかとなにかを話していて、思いついたことがあったとすると、その思いついたことをいつ言おうかということで頭がいっぱいになります。話が途切れなくてなかなか言えないでいると、もうやきもきしてしまいます。ひょっとしたらそのことが、ストレスにさえなっていたかもしれません。


また、だれかとの関係において、すぐにネガティヴな兆候をほじくり出して、わざわざ自意識のデスクトップに大広げにしてしまいます。相手の反応や態度をみて、過大な解釈をし、すぐに自分の至らなさや、相手の自分に対する不満と結びつけてしまいます。


もちろんそれが妥当である場合もあって、そのようなことを推しはかる力ももちろん必要だと思うのですが、度を超えてやりすぎだった自分を自覚し、最近では意識的にそれをやめるようにしています。


いつもなら自意識に支配されていたであろうタイミングを見つけては、自分から離脱するのです。外側から自分を見つめるような感じです。


この感覚は、楽器や歌の演奏活動をずっとやってきたわたしにとっては、自然に身についていること(あるいは作為的な努力によって身につけたこと)でしたから、演奏以外のときに応用するだけのことでした。


これをおこなって、少し変わったなと思う具体的なことはなにかといいますと、出会う人、日常的に一緒に過ごす人やらが、今までより話をしてくれるようになったことです。


いつもなら自意識が支配的でしたので、そこでわたしは自分の作業に戻ってしまうとか、立ち去ってしまうとか、あるいは自分の喉元にあがってきてつっかえていた、ただ言いたいだけのことを言い放って話がもうそれ以上続かないとか、そんな顛末を迎えていたであろう場面があったとします。


そこで、ふっと自意識から離脱して、いまの自分、自分たちのおかれている状況を俯瞰してみます。この瞬間の外面的なわたしがどういう様子かというと、鏡や写真や動画でチェックしたわけではないのではなはだ想像でしかありませんが、おそらくぼんやりしたあほ面をしていると思われます。


仮にその想像が正しいとしましょう。すると、人々はどうやら、ぼんやりとしたあほ面には心を開いてくれやすいようなのです。おかげでわたしは、今まで以上に、出くわすあらゆる人、関わりの深い身近な人の考えやその瞬間その瞬間の気持ちや、わたし同様の自意識を抜け出したあほ面に触れられるようになったのです。


わたしは、ちょっとなにかを言いやすい人になった。あるいは、頼みやすい、心を開きやすい、はったりや嘘を言ったり、見栄を張る必要のない人になった……のかもしれません。


このことは、他者との関わりにおいてのみのことではありません。自分に対しても、いままで以上に偽りなく、ほんとうのこころをさらけだせるようになったような気がしています。


それは、自分を客観的に見て、認知し、受け入れてくれるわたしがいるから。自分に対しても、ちょっと言い出しやすい(ぼんやりしたあほ面の)、ちょっといいやつになったのでしょう。