大人への道

大人になるとはどういうことなのか、今でもよくわからない。ただ、子どもを持つことが親を大人にする要因となる何かを含んでいる可能性については、たまに思うことがある。


それは、他者のことを本当に本気で思って行動することにある、とする考えが自分の中にひとつある。だから、別に子どもを持つことは、まったくもって必須じゃない。そのプロセスなしにも、他者のことを本当に本気で思って行動するきっかけとなりうるものは、世の中にいくらでも存在すると思う。それらたくさんのきっかけの中のたったひとつが、たまたま子どもを持つということであったというだけだ。その思いは、僕自身が子どもを持って2年半くらい経とうとしている今も変わっていない。


たとえば、歌を残すことを、子どもを残すことに重ねて論じることができるかもしれない。歌は、まぎれもなく、つくった人(あるいはその背後にひかえる幾千幾万の人たち)から出てきたものなのだけれど、生まれ落ちたところから、その歌、すなわち「子ども」は、別の個としての命を持ってまた他者と関係していくことになる。その「関係者」の中には、作者である自分も含まれることになる。生み落すことで、ある意味自分と関係し合える存在に昇華されるといってもいいかもしれない。


生み落とされる前、すなわち自分の中にだけある段階でも、自分とのみならばすでに関係し、影響し合える存在かもしれない。宿主であり母体である「自分」を介せば、その時点でも「子ども」は、間接的に他者と関係を結べるかもしれない。でも、直接的な関係を、独立した個として自由に結べるようになるのは、やはり生まれ落ちたあとに広がる「スペース」にあるといっていいと思う。


生まれた直後の赤ちゃんというのは、あんまりかわいくない。しわしわの皮膚の奥に包まれた鮮血の色が、黒いピンクに見える。「胎脂」と呼ぶらしいことをあとから知った、「かす」や「おりもの」みたいなものが全身にたくさんついている。目を開くか開かないか、両のまぶたのすき間には無限の闇のような黒目が浮かんでいた。自分の子どもが生まれたときに彼(男の子)を見たときの印象を、そんな風に記憶している。


子どもが、母体から離れる。ひとつの個として動きまわるようになる。彼や母親と、僕の距離は、近い。一緒に暮らしているから、あたりまえだ。彼や母親の気持ち、要求や要望は、近くにいる僕に強い影響を及ぼす。彼らの不快の原因を取り除くことや、彼らの快適さのきっかけをつくることが、直接、僕にとっての快適さや不快適さにつながる。だから、他者のことを本当に思って何かすることが、その人を大人にするきっかけになるとするならば、今のところ僕はまだ自分自身のことを思ってしか、行動できていないのかもしれない。大人への道は遠い。