My Favorite Noise

よく風呂に入る。何か思いつきたくて入ることもあったし、思いついたことの先を考えたり、不明瞭なところをより具体的にする発想を望んだりして風呂に入ることもあった。スーパー銭湯をよく利用した。


そうやって発想されたものたちが、飯のタネ(あくまで、金銭的な意味で)になったなんて経験は、基本的に僕の場合はない。いや、実は「タネ」だと僕は思っているけれど、発芽して、開花して、結実して、というところにまで至ったことがない。


厳密にいえば、自分を含めたごく少数の人のみの範囲でならば、もちろん花を咲かせもしたし、果実を摘んで味わいもしたかもしれない。あまり大きい規模でそうした経験がないというだけだ。



ぽっかりと穴が空いたみたいな、なんでもない時間に何かを思いつくことが多い。リラックスしているときが多いと思う。僕の場合は、時間に追われず、これといってどこかへ辿り着く義務も持たずにノンビリ出かけて行っているときの移動中の自転車の上でだとか、入浴時が多い。これから風呂に入ろうと服を脱いでいるその瞬間に、風が吹くみたいな自然さで、良いアイディアを無意識に口ずさんでいたこともある。湯に入るのはまだこれからだというのに、早まったものである。服を脱ぎ捨てるときの体感覚や、身体を圧迫したり、身体にまとわりつくものからの解放感が作用したのだろうか。


なんでそうした、入浴や軽い運動のときに何かを思いつくことが多いのかという理由を説明しようとすると、ついつい「脳の血流が良くなるからじゃないかしら……」などという説明をこころみてしまう。そう言っている一方で、心のどこかの別の僕が、「まぁた『脳』だとか『血流』だとか言っちゃって……君は医者か?  科学か?」などと横やりを入れる。服を脱ぎ始めただけですでに血流が良くなり始めているのかはわからない。血の流れが大きく変わるには、それなりに時間が必要そうに思える。脳のリラックスは、一瞬で始まるのかもしれない。



一人でいるということの大事さについても思う。本当の意味で、孤独に生きられるかといったら難しい。単純に、「一人の時間を持つことの大事さ」程度のことだ。他の者に干渉されたり、圧迫されたりしない時間を持つことだ。縮こまった乾麺が、お湯の中でのびのびと解きほぐれながら、水分を吸収してプリプリになっていくような様子が浮かぶ。


お湯につかっている状況だとか、自転車をこいで風になでてもらっている状況だとかを、自分の体感覚に対する干渉ととらえることもできる。一切の自分に対する干渉が排除されたら、きっと気持ち悪いだろう。自分が「無響室」に入ったら、何かしらの気持ち悪さを覚えるのじゃないかと想像する。


無響室は、一切音の反響のない、不自然で特別な状況を人為的につくりだした施設だ。どこかの大学(だったかな?)にあるらしい。そこ足を踏み入れた作曲家のジョン・ケージは、自分の内臓の音を聴いたという。内臓までもが、「わたし」に干渉してくるのだ。決して、ひとりになどなれない。





この文章も、孤独ではありません。お読みいただき、ありがとうございます。