すぐ死ぬ覚悟なんてできちゃいないのに、だれもがいつか必ず死に至るという話を、僕はよくしてしまう。
あたり前のことだけど、あたり前のことじゃない。とても尊いことだけど、非情なことでもある。非常であり、常である。
平成がはじまったとき、僕は2歳だった。そのときの記憶は、ほとんどない。幼かったからだ。
僕の人生の体験のほとんどが、平成時代のものだ。生まれた年は昭和時代に属している。だけど、元号が変わろうともそこを境に何か劇的な変化が急に起こるわけじゃない。だから、僕の記憶に残るもっとも古いものの中には、昭和の匂いをぞんぶんに残しているものがある。それはもちろん、最近のことだって必ずしも例外ではない。
僕の息子は、いま2歳だ。
彼の生まれは平成だけれど、これからの人生のほとんどが令和に属することになる。
いや、どこまで令和が続くかは、今のところ知り得ないけれど。
この31年間ちょっとで、こないだ生まれたばかりの幼児だった僕は、次の世代をこの世に呼んで連れてくる立場になった。
目にも見えないし、においもしない存在だった息子が、2人も僕たちのもとにやってきた。
死は、僕にとって、近くて、遠い。今日死ぬ覚悟なんて、僕にはまだない。
けれど、あと30年したら、その覚悟ができるのだろうか?
30年前を振り返って、おなじようなことを思っているかもしれない。
小学生のとき、高校生や大学生のことを見て、なんて大人なんだろうといつも思っていた。いまの僕から彼らを見ると、若さ、未熟さがよく目につくようになった。
僕自身も、小学生から見てあんなに大人な存在だった「高校生」や「大学生」を通ってきた。小学生からは大人だと思われ、子育て中の30代くらいの人たちからは若いなぁ未熟だなぁなどと思われていたことに、高校生や大学生の頃の僕はあまり気付いていなかっただろう。自分の人生の主人公は自分、くらいにしか思っていなかったかもしれない。見上げたり見下ろしたりする、さまざまな視線のもとに、一人ひとり別の主人公がいることへの想像が及ばなかった。
今でこそ、異なる視線のもとの主人公たちの多様さを十分に理解しているとは思えない。
たくさんの主人公たちは、日々刻々と入れ替わる。
小さな生や死。その集合体。代謝する命。
そのおしくらまんじゅうの、中にいる。
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