居酒屋まるごし

仕事で講演会のセッティングをすることがあります。あるいは、じぶんが研修なんかで講義を受けることもあります。そういうときによく、スクリーンに投じられるスライドを紙に印刷したものを配ったり、あるいは配られたりします。あれを、筆記で忙しくメモをとったり、あるいはスクリーンの写真を撮ったりする手間をかけずに持って帰って見ることができるので助かるという人もいます。


講演をする側としても、あれがあると次にどういう話をするつもりで来たかを随時確認できるので、話がしやすいみたいです。ただ、これはちょっとあえて毒っぽく言うと「事故なく、つつがなく進めるという意味で話がしやすい」というニュアンスにもなります。


このようにしなきゃならない、このようにすすめなきゃならない、という筋道を逸脱するたのしみというのがあります。その筋道をあえて提示したうえで意図的に逸脱するというおかしみもある気がします。「ほうら、こんなに僕らすっとぼけちゃってんですよ。おかしいでしょ?」なんてことを口に出して言うことは決してありません。すっとぼけちゃってることを認めてはならないのです。


その場でしゃべることを決めてしゃべるたのしさがあります。いえ、しゃべることを決めずにしゃべるたのしさ、といった方が適確でしょうか。


結論の用意が先にあることも、それはそれで良いでしょう。あるいは結論の用意がなくとも、やり方を決めて漕ぎ出して、どんな場所にたどり着くかということを楽しむのもありです。あるいは、あんなに適当で出鱈目な方向に漕ぎ出したにも関わらず、ちゃんと目指した場所に行き着くじゃないかという痛快さを楽しむのもいいかもしれません。「どう漕ぎ出したってちゃんと着くから大丈夫!」という舵取りへの信頼が、どのような道のりを経て目指す場所に行くかをより自由にするのかもしれません。


「あなたとだったら、何かやりたい」というのが、その「舵取りへの信頼」みたいなものでしょうか。ある実績が、そうした信頼を築くきっかけとなることもあるかもしれません。ですが、「名が聞こえてきたから会ってみたら、思ったのとちょっとちがった」ということもままあります。お互いについて何も聞き及んでいなくたって、出会ったその場で何かを感じ、「この人とだったら何かやりたい」と意気投合することだっていくらでもあるでしょう。


「居酒屋的なつどい」の機会にはそうしたきっかけをもたらす機能があるかもしれません。ただ、最初から「何かを生むぞ!」という気概はむしろ邪魔になることもあるでしょう。丸腰で集うから、これから必要になるものが見えるということもあるかもしれません。


居酒屋の外で(あるいは中でも)、僕は余計な道具を持ちすぎなのかも?


お読みいただき、ありがとうございました。