バーチャルじぶん企画会議

予定を決めてしまうのをいやだなと思うことがあります。そんなことばっかりです。じぶんに思いもしないようなドキドキワクワクの未来が外からやってくる、もらたされるようなことにすがるなんてとてもあほらしいことですし愚かかもしれませんが、じぶんのちんけな想像力では、その時点のちんけさでは至りようのない未来がじぶんにあるような気がしてしまうのが、いかに私がちんけで未熟な想像力しか持ち合わせていないかを物語っているのかもしれません。


といいますか、思ったとおりにならないことが楽しいのです。ちんけな想像力しか持ち合わせていなかったじぶん、そのじぶんを超えたといいますか、その頃のじぶんを脱したといいますか、それを成長とか進化とか自己更新とか呼ぶのはいくぶんおおげさかもわかりませんが、確かにかつてのじぶんから変化したというのを実感できることがあるのです。


私は曲を書くのですが、こういう曲を書こうと思って書き始めると、その瞬間にもうつまらなくなってしまうのです。あたりをつけて書き始めると、書けないのです。書き始めるという言い方は間違っているかもしれません。正確には、書き始めようとする、が適切かもしれません。


ですので、わたしが曲を書けるというのは、じぶんがつけた「あたり」なんてものとは別の次元から降ってきたみたいな動機があったことを示しています。そんなものつくろうなんて思ってもいなかったのに、急に湧いて出たようなものをおもしろいと思うのです。その湧きどころがじぶんだったというのが幸せであり、喜びでもあるのです。


なんか書こう〜〜としてなにか、はじめのきっかけみたいなものが書けることももちろんあります。でも、それを、こうかな、いやそうじゃない、こっちかな、なんて具合にあれこれしているうちに、はじめに書けたきっかけ、それしか未来の判断材料がなかった時の姿から想像できるようなものとはだいぶ違ったものに変貌していることが多いです。


具体的には、ある曲を思いつく、これから曲になる大部分をそれをきっかにつくることができるくらいの強さをもった「動機」が生まれたとき、「この曲のドラムパターンはラテンっぽい感じでできそうかな。ずっとやりたかったんだよなぁ、好きなんだよね、ラテンのビート。やっと使えるわぁ」なんてマッチングを夢想して書き進めていくうちに、いや、やっぱこれラテンのビートじゃないよ。ちょっと無理があるよ。とってつけたみたいになっちゃうよ。やーめやめ。なんて思いに至ります。それで、その曲に合ったドラムビートを仕上げることになるのです。


たとえばここでいう「ラテンのドラムビート」みたいなものは、すでに私の意識、記憶、知識のなかにある「ありあわせ」でしかないのです。ですから、それをそのまま持ってくるようなことは、やはりつまらない。つまらないといいますか、それはマッチしていない、成立しないので、実現しないのです。具現化するのは、立ち上がるのは、実際にはもっと違った未来。


設計を考えて、スケジューリングして、そのとおりに準備や作業を進めて、実現に向かっていく、そのとおりにできることって、すごいと思います。それができる人のことを尊敬します。感服です。


そういった、私が感じ入ってしまうようなすごい人たちも、実際にことを進めるに当たっては、ぜんぜん予想もしなかった事態に直面したり、計画や設計の不備をみつけて、事前の考えにはなかったことをしたり、新しいアイディアをマッチングさせたりといったことを実際にしているのかもしれません。でも、ものごとの裏側までもがよく見えていない私には、「やっぱすっげぇな〜〜この人は。こんな完璧な設計の遂行、ぼくにはできない」なんて思えてしまうのです。


私にしましても、最初に思いついたことを表明(じぶんに対してのみの表明だとしても)すれば、それが設計図なのかもしれません。それが未熟で、視点の深さ、多面性が欠けているがために、実行以前に問題(つまらなさ)を見つけてしまって、みずからつっぱねてしまう。そういう意味で私は、採用にすら至らない計画、企画をじぶんにバーチャルで提出してはボツにするというのをひんぱんに脳内でやりあっているのかもしれません。


そんな「バーチャルじぶん企画会議」を通って、おもてにしみ出てくるものがある。


お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎