ロングスケール

もっと馬鹿になりたいと願うことがあります。


いいえ、現に、私は相当の馬鹿者ですし、かなり愚かな、自分を貧相にする吝嗇家だとも思います。自分だけならまだしも、人にまでその影を落としているかもしれません。そうだとしたら、私の周りにい続けてくれている人には申し訳ない。誰もいなくなる前に悔い改めたほうがよいことが、私にはあるかもしれません。


それでも、もっと馬鹿になりたいというのは、突き抜けたいという願望のことです。もっと、傾きたいのです。そのために、非情にも、怠惰にも、冷酷にも、過敏にも神経質にもなりたい。変化を拒めてしまう己を追い出したいという願望を持っています。


それなのに、私は、見過ごしてしまう。見守ってしまう。引き出しにしまってしまう。慣れてしまう。変わることを後回しにしてしまう。それって、なんだ、鈍くて、馬鹿なんじゃないの? もう、馬鹿者になれているじゃないの、とも思います。そうかもしれません、でも、違うの、私の思う馬鹿者は、もっと、人にかまってもらえて、すごい奴なのよ。


目立つために馬鹿なふるまいをしたいとは思いません。以上に記したようなことは、私の心の中にいる面相の一つふたつ三つに過ぎません。かつ、なるべくその表出を抑えようとしてきたものたちです。胸の扉を、彼らが次々にやってきては、叩く。扉の前にたまる。デモでも起こさんばかりに協調する。かと思えば、まとまらない。そんなやつらに、扉は開けてやらない。扉には、ドアボーイがいるのです。その係もまた、私の面相にひとつであって、私は彼に救われている部分が多い。ドアの向こうにいる、締め出されている者たち(閉じ込められている者たち)に救われることと、同じくらい。


心についたこの扉。そばについたドアボーイ。押し掛けるさまざまの門外漢(門内漢)。かれらの駆け引き。ドアの音漏れ。その開閉。そういったまるまるの機構が、私の理性なのか。



お読みいただき、ありがとうございました。