残菜には手間がたりない

めしが、残るんですよね。


じぶんでつくったり、妻がつくったりするわけです、食事を。


で、食べるわけです。


それが、残るんです。もちろん、残らないときもあるけど。


で、残ったらタッパーとかにいれて冷蔵庫に入れる。


翌日とか、また料理します。


で、冷蔵庫開けて、あ、昨日の残りがあったわ、とか気付きます。


作る前に気付く(思い出す)こともあるけど、その「残り」だけじゃその日そのときの食事は物足りないものになってしまうので、やっぱりその日そのときのための食事はつくります。


で、食べるわけです。その日そのときのためにつくったメニューと、タッパーとかに入った昨日の残りものをならべて。


そうするとやっぱり、その日そのときのために作った、ほかほかしているやつの方がおいしそうで、魅力的に見えるので、箸はついついそちらの方にばかり向かいます。


で、昨日の残りの、タッパーに入ったままレンジでチンしてテーブルに出したやつは、あんまり手がつかないでまた残っちゃったりします。


場合によっては、その日そのときのために作った食事のほうもちょっと残っちゃったりもする。


こうして2種類、3種類とおかずが残ると、あるところで、「こんだけ種類があればもう作らなくていいか」とあきらめがつく瞬間がやってくる。そのときは、もう全部並べて、白いご飯と汁物だけとかをつけ加えて、その日そのときのメニューが成立したとみなして食べます。


タッパーに残っちゃったやつ、なんでうまそうに見えないんだろう。なんか、タッパーくらいズボラな感じでつかえて、かつ食べ物が魅力的に見えるアイディア商品みたいのってないんだろうか。そんなことを思いました。


実際、そんな僕の思いに応えたかのような商品って、すでにたくさんあるみたいです。


器が、けっこうしっかりしていたり、デザインが洗練されていたりして、いい感じのやつ。


でも、なんか、もう一押し、僕の「魅力感じスイッチ」の入りが足りない。


僕は、ズボラをあきらめて、残ったお惣菜は、電子レンジでなくフライパンやお鍋であたため直す、盛りつけも、お皿をあらためて出してきて、いい感じのお気に入りのお皿にするんと、「その日そのときのために作った食事」みたいにして盛りつけて出すといいんじゃないかと思いました。そう、実際、そこまでしたら、下ごしらえが昨日やおとといだったというだけで、そのメニューは「その日そのときのために作った食事」と大して違いなさそうにも思います。


ズボラ、したい。そんな欲求に素直になることが、生活の質を上げてくれる。そんな側面も、僕は認めます。でも、ていねいにすること、ある機会のために割くべき労力ってのがあって、それが満たされることで気持ちまで満たされることってあるのじゃないかとも思います。そこを、割愛しちゃいけないよ、と。


ズボラしたいときは、したっていいのです、モチロン。でも、なんか違うというときは、ほんとは自分は「ズボラしたい」が本心じゃないのかもしれません。心は本当は、「ていねいにしたい!」って叫んでいるのかもしれない。叫んでいるつもりだけど、声帯がかすれてしまって、うまく声が出ないのかもしれない。


ズボラ、ズボラの積み重ねで、ときに僕は、心と距離を置いてしまうことがあるようです。



お読みいただき、ありがとうございました。