結局、肉体の年齢が精神の年齢に及ぶんじゃないか。

私は、教員免許を取得するための実習の一環で、高齢者施設で研修をしたことがありました。


そのとき、利用者の女性の一人に、「こんど食事に行きましょうね」とひっきりなしに誘われたことがありました。車いすに乗った、身体の細くなった白髪のおばあさんでした。


その人は、たぶん認知症だったのだと思います。その判断を下すのに私がじゅうぶんな専門知識を持っているとは言いがたいですが、そんな私にもそう思える、そう考えるのに十分な兆候が認められたのです。あの白髪のおばあさんは、当時大学生だった私と対等か、もしくは少し年上のお姉さんくらいの年齢のつもりで私に話しかけ、食事に誘っていたのだったと思います。


いろんな年齢の自分が、自分のなかに積もっていきます。今の自分とは、これまでの違った時代をすごしたたくさんの自分を振り返る権利のある人、といだけかもしれません。振り返れる位置にいる、とうだけ。それを、たましいの年齢といっていいかわかりませんが、精神年齢みたいなものと思います。そこに、肉体的に突きつけられる事実としての年齢も加味されて、合わさって2で割るとかしてならされたものが実際の精神年齢、かもしれませんけれど。


たくさんの蔵書を持っている。豊富なライブラリィがある。年齢が高くなるほど、そうなる。それらを参考にした姿勢がとれる。それが、年齢が高くなるということなのかもしれません。で、もちろん、ひとりぶんの肉体の物理的な総量みたいなものは急激に増えたり減ったりしませんし、その中で、認知の行ったり来たりの総量、すべての交通量が、加齢に応じて変化していく・・・年齢ってそういうものかなと想像します。


ある意味、過去の蓄積、ライブラリを参照した上で、意図的にその参照や参考を無視した姿勢をとることだってできるのが、高い年齢の者に許されることです。あるいは、肉体の衰えの理由から、自然とそうなってしまうといのもあるかもしれません。


高校生の容姿を見て若いなぁ、幼いなぁと思うこの頃の33歳の私ですけれど、高校生くらいのときに自分が感じたり考えたりしたことと、今でも私は対等に話ができるのです。ただ、それらを振り返り、参照した上での態度をとったり、あえてそれらを無視したりできるというだけのこと。肉体の衰えと引き換えに、それを得ているのです。私は、異年齢の私とも、資源の総量は変わらない・・・のかもしれません。


あかちゃんはどうだとか考え出すと無理があるようにも思いますが、まわりの人間に世話を焼かせる能力について、今の私は彼らに到底及びません。じぶんでいろいろできるもんね。


お読みいただき、ありがとうございました。