私の観光地

私にとっては、東京の都心といわれる地域が観光の目的になりえます。なぜなら、私の住んでいる西東京にはない景色がいろいろあるからです。近代的なビルの外装や内装は、私の住む町ではあまり見かけるものではありませんし、それらのイレモノに入るお店たちは、私の住む町に生じた空きテナントに入ってくるお店とは明らかにちがったものである場合が多いと思います。そういったものを私が好むかどうかはまったく別ですが、いつもとは違った光景、風景、景色、人の営みを見るという意味では、東京の都心は、私にとって観光の目的地になりえます。


自分の住む町であっても、ふだん目にしないところはじゅうぶん観光の対象になります。観光というとおおげさな響きがします。散歩とか徘徊とか、そんな響きのほうがしっくりくるかもしれません。でも、やっていることは観光に近いのかな。居住地域にだって、いくらでも知らない側面があるのです。死角だらけです。家に帰るためにいつも使う道沿いにだって、「一刻も早く家に帰る」という目的を達成することのみを目指した場合、見過ごされてしまうものが無限に近いくらい存在しているのです。


ついつい、私は道を急いでしまう。急がざるをえないような時間の使いかたをしてしまうのです。でも、その道すがらに、観光の種がある。観光というのは、そのためのエネルギーを、時間を、金銭的な資源を捻出しなければ持てない娯楽なのでしょう。娯楽であり、嗜好であり、道楽であり、趣味でもある。時間やお金やエネルギーのかけかたは自在で、どれかを多く、少なく、といった調整もできます。遠くへ行くお金も時間もないのであれば、家の近所でだって観光できるというのが私の考えです。


普段よりも、「一歩」踏み込むだけ。そこに、死角があり、未知があります。たとえば、私はコーヒーが好きです。これを淹れて飲むという行動は、日常的にやっています。だけれどもこのコーヒー豆、生のものに加熱して褐色にするという作業が、私ではない誰かによって済まされている。それ、自分でやったらおもしろいんじゃないかと、「一歩」踏み込んでみるわけです。ちょっと調べるだけで、ギンナン煎り器やフライパンでもできることがすぐわかります。それを、やってみる。すると、これまでには見たことのない景色が立ち上がる。体感がある。経験になるのです。これを「観光」と呼ぶのは少し認識がずれているかもしれませんが、「いつもとちょっと違ったものを知る、体験する」というところはそう違わない。私にとっては、じゅうぶん、とくべつな「観光」に思えるのです。


そんなわけで、私にとっての観光地は、都心にだって、居住地域の西東京にだって、おとなりの武蔵野市や練馬区や新座市や東久留米市や小平市や小金井市にだっていくらでもあるわけですし、もっと言えば家の中に「観光」を持ち込むこともできるのです。やっぱ、なんか「観光スポット」がズレている?


お読みいただき、ありがとうございました。