わかりあっちゃいなくとも

先日、あるトークセッションのようなイベントへ足を運びました。そのイベントの登壇者の一人が、英語を話す人でした。私は全身全霊でその話し手の表情に、口元に、身振り手振りに、発する音声に注意を向けました。が、あまり多くは聞き取れませんでした。というか、ほとんどだめでした。でも、だめなりに「お、今<イミディアトリィ>って言ったな」とか思って、うんうん、断片的にいくつかの単語を私は聞き取っているなぁなどと自分のヒアリング能力にちょっと満足を覚えていました。ですが、です。その話し手が一段落しゃべり終えると、ただちに通訳さんによる日本語訳が追従します。それを聞くに、「え?こんな話をしてたの?」と思うことばかり。断片的に副詞や修飾語なんぞを聞き取ったところで、それが何についての話なのか私はまったく理解していなかったのです。あぁ。情けなし。せめてもっとゆっくりと、はっきりと話してくれたら私のヒアリング力が及ぶかもしれないなどと思いつつも、時間の限られたトークセッションでその願いは叶いませんでした。


「ちょっとわかったつもり」は、のちに重大な危機を招くかもしれません。いま、パッとその例えが浮かびませんが。幸い先に述べたトークセッションで、私が聞き取れないなりに何かちょっとわかったつもりになったことによる実害は何もありませんでした。ですが、これがもし危機が差し迫った非常事態のアナウンスだったとしたら、重大な理解すべきことがらを私は「わかっている人」とみなされて、必要なケアを受けることができずにトンチンカンなおこないをし、自分を危機にさらしていたかもしれません。


ぜんぜん違う話になりますが、話し合っている内容をお互いが本当に理解しているかなんて、怪しいものです。ただ一緒にいて、向かい合ったり、隣同士に並んだりして、相手の存在をお互いが認めている状態それそのものばかりを私は重んじているのかもしれません。相手の目を見るとか、表情や仕草に注意をしている、その状態を少なくとも守ろうとしているのです。けんかばかりして仲が悪いように思えるパートナーどうしがいたとしても、地球の反対側にいる見知らぬ他人どうしよりも、よっぽどお互いの存在を認知しあっている仲といえます。わざわざ言うまでもないことですけれど。なんといいますか、手の届くところにお互いがいて、影響し合える仲だということ、その共通理解をこそ築きたいと思うのです。たとえそれが地球の裏側にいる者どうしだったとしても、お互いに影響しあう仲なんだよということを実感できたら、その世界は理想的かもしれません。


現実は別にあるとしても。だからこそ、おとぎ話を語ったり、それに耳や目やこころを向ける私か。


お読みいただき、ありがとうございました。