「ポケモン」はゲームボーイのソフトだったんだけどなぁ

ある人は、ある歌から発想を得て漫画を描いた。別のある人は、漫画の感動に触発されて歌をつくった。またある人は、自分でつくった歌をもとに小説を書いた。それからあっちには、自分でつくったアニメーションに自分で音楽やら歌をつけた人もいる。それが映画である場合もある。


媒体を超えて、いろんなかたちで表現されることが、ひところよりも当たり前に行われるようになったことを思います。制作のための専門的な道具が、安価で一般的に普及したことで、培われる才能の数が膨らんだことは大きいでしょう。プレイヤーの絶対数が増えれば、それだけユニークで頭抜けたものが生まれやすくなることを思います。


多才な人って昔からいるもんで、たとえていいのか分かりませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチなんて、芸術やら学問やら、これといって「何の人」とひとつに決めづらいくらいの多才さを見せていると思います。私などはその端っこすらもよく知らない方なので、こんなところで挙げておいてなんですけれど。


何を誰にどう伝えるかというところで、ふさわしい媒体がなんのか、その答えが導き出せるでしょう。一方でその、・何を・誰に・どう の部分をさまざまな別のモノにすこしずつ入れ替えることで、選ぶべき媒体も変わってくることを思います。たとえば、不朽の名作と言われるけれども消化するのに少し骨の折れる文学作品なんかがあったとしたら、それを少し若い世代に新しい感覚でもって味わってもらいたいし、そのほうがおもしろがってもらえそうだから「アニメーション」というかたちで届けてみよう、なんて具合にです、ありきたりかもしれませんけれど。


媒体によってスピード感も伝わり方も違います。6時間とか10時間とか、一冊の本を読むためにまとまった時間をとれないよという人(言い張る人)に、その作品をもとにつくったアニメーションを20分ちょっとでいいから画面の前でがまんして見てくれよという風に持っていけば味わってもらえる可能性はいくぶん高まるかもしれません。それはそれで、また原作とは別物でしょうけれど。


いろんなかたちで提案されたものぜんぶをひっくるめて、ひとつのコンテンツがかたちづくられるということが現実にいろんなところで起きているようです。「ポケモン」だって、私が小学生のときはイチ「ゲームボーイ」のソフトだったんです。ただ、なかなか他にないくらいにおもしろいソフトだったというのは違いないのですが。


そういう、「あとからコンテンツが大きくなる」事象をたくさん観測した現代では、はじめの頃からそうした広がりを見据えて何かを仕掛けるということがされるようになりました。それも、「よしあし」あると思いますけれど。ある作品の輝きは、媒体の外殻を飛び出して届いてしまうものです。



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