百面相の素性

ある人に、ほかの人と似たところを見出すとする。「この部分は私の知っている誰かに似ているな」というのを「つぎはぎ」していく。すると、「どこかで見たことあるような人の集合」のできあがりだ。唯一無二なんかじゃない、どこかで見たことのあるような、ありふれた人。そうやって人を見る。そんな見方がある。そうやって、私はほかの人を見る。ほかの人も、私のことをそうやって見ているかもしれない。


でも、そのつぎはぎで覆い隠してしまった部分にこそ、私の知らない「その人」が隠れている。ほかの人が見る私のつぎはぎの下にも、やっぱりほかの人の知らない私がいるだろう。


SNSをよく見る。みんな、いいことを書いている。いや、「ぱっと見たかんじが、グッド」なことを書いている。ちょっと冗談じゃ済まされないようなことは、そうそう書かれていない。いや、たまにそういうものもあって、「炎上」するなんて顛末もあるのかもわからないが、それはごく一部だ。「炎上しうる」ような内容を含んでいつつも、気付かれずに見逃されている書き込みのほうがたくさんあるに違いないと思う。 話が逸れたが、だいたいの場合、「きれいなとこ」「他人に見せたいこと」を発信している。自分が話題にしたいこと。それが話題になるのが、じぶんにとって都合のいいこと。そういったものが多い。もちろん「あなたにとっても都合がいいでしょ?」という考慮の形跡が見て取れる場合も多い。相互に利益がある関係というやつだ。


上段に書かれているようなことが、「つぎはぎ」だと思う。いや、もちろんごく少ない量になるけれど、そこに「つぎはぎ」でない「素顔」が直接さらされているものもあることとは思う。


社会が削り取るものがある。それでもうまくやるために、「つぎはぎ仮面」は必要なものかもしれない。捨てよ、なんて言わない。むしろ、ちゃんと持っていたほうがいいし、なんなら複数の仮面を持って、それを付け替えて用いるような時流だと思う。

あ、それは必ずしも「つぎはぎ」とは違うか? 単一の素材からなる複数の仮面を付け替えてやりくりするこれは、整理上手な人かもしれない。私は散らかし性なので、そのいずれもにごみごみした不気味なステッチが含まれているかもしれない。


素顔は、ひとりひとり違う。あと、「つぎはぎ仮面」も、どんな素材がどんな風に入り交じっているか、その様相は一人ひとり違う。その模様に「傾向」(ぱたーん)を見出し、分類(かてごらいず)なんてし出すと、「ああ、はいはい。知っている。よくある、ありふれたやつね」なんて「知ったつもり」になりがちだ。いや、一般的な話でなく、あくまでも私の場合、である。


知っているものとの関連を見出すと、私はそれに興味を持つ。「知ったつもり」になるのでなく、「知る」のは重要だ。新しく「知る」ために、生き続けているともいえる。「新しく知る」が増えると、今まで関心を抱かなかったことを認めだす。「新しく知る」ことって、それは例外なく「つぎはぎ」の下にある素顔の部分なんじゃないかと思う。



お読みいただき、ありがとうございました。