東千京葉

千葉って遠いですよね。いえ、そんなこと言ったら怒られるか。というか、嫌な気持ちになる人もいるでしょうか。でもむしろ「ああ、はいはい。そうだよねぇ」と一緒に笑ってくれるかもしれないとも思います。千葉にだっていろいろあります。東京との境目付近ならば、東京の人から見てもそう遠くないかもしれません。もちろんほかの県境もあります。私が東京出身だから東京を基準にしてしまっていますが。広いからいろんなところがありますもんね。山も丘も海も畑も牧場も。そんなイメージを勝手に抱いています。学生時代にスポーツやら音楽やらの合宿で海のちかくにお邪魔したのを覚えています。


驚きは笑いのもとになるという認識を私は持っています。どこかで「笑いの本質と驚きは似ている」みたいなことを耳にして(読んで?)以来、私はああ、確かにそうだなぁと思い、なにかにつけてそのことを思い出すようになりました。すっごく驚くことがあると、それがそのまま笑いにつながる経験を私がいくつか持っているがために、共感し、納得するのかもしれません。とんでもないこと、想像もつかないことを提示されると、驚きのあまり笑ってしまうことがあります。向こうからやってくる提示がそもそもいきなりすごい侵入角度で、あまりの突飛さに驚くこともあれば、こちらが問いかけたことに対してのとんでもないリアクション、その答えに驚き、笑いが起こるというパターンが思い浮かびます。


入力されたそれを認知して、驚くのにそれが笑いになるというのは不思議なものです。困惑や、迷いを生むことがあってもおかしくないのでは。実際、おんなじ提示を受けたとしても、それを受けて驚いたとしても、人によって、それへの反応が大笑いとして現れる場合もあれば、眉をひそめていぶかしがるというような場合もあるのではないかと思います。それに紐づけて、解釈する知識、引き出しの中身、参照する資料がその人の中に豊富にあるほど、どう反応するかそのものに「惑う」「迷う」ことは少なくなるのでしょうかね。より多くの資料を備えているほうが、あることをより多くの側面から好意的にとらえることもできれば、そのことにともなうあやうさや不快な感情やらを指摘できるのかもしれません。


音楽の趣味が、じぶんの時代のうつろいによって変わることってあると思います。音楽については、私個人として人生でより多くを割いているので思い当たるふしがありますが、笑いについてはどうなんだろうか。その趣味・嗜好(指向)が変わっている部分もきっとあるのだろうなと思います。


なんらかの、ものごとを解釈するルールを一人ひとりが備えていて、そのルールが、情勢の変化とか、手持ち資源の現状の移ろいなどに合わせて、書き換えられていく。それも、いきなりぜんぶがひっくり返るというよりは、逐次、少しずつ、必要な部分が書き換えられて行くケースが多いのかな。もちろん、必要あらば、「革命」が自分に起こることだってあるのだろうなと思います。人生が変わるくらいに大きな転換点がいつあるともわかりません。


驚いて、笑えるのは、その人の築いた財産なのかもしれませんね。いきなり千葉の話をされて笑える人は、思い当たるふしがあるのかもしれません。それ、財産ですよと言いたい。




お読みいただき、ありがとうございました。