コレも、あるね。


冷蔵庫に昨日のおかず

何作ってあったか、すぐ忘れます。冷蔵庫に昨日つくって、食べて、残った汁物だとかお惣菜だとかを入れておくのですが、そのことを忘れて、また新しく汁ものやお惣菜をつくってしまうことがあります。で、あとで冷蔵庫を開けて思い出すのです。


「うわっ。コレあったよ」


「つくる」ときに多く開けるのは、野菜室と冷凍庫です。冷蔵庫はスルーしがちなのです。だから、冷蔵庫を見る前に調理にとりかかりがちなのです。で、あとから、調味料を取ろうなどして冷蔵庫を開けたときに気付くのです。(先ほどのせりふに戻る。)


ほどほどに関わって、また会いましょう

よく「食べ残し」をするようになりました。昔に比べて。かつての私は、無理して「片付けちゃえ」と、自分の胃袋のほうへ中途半端に残ったお惣菜やらを押し込むことをしがちだったのです。今は、「ちょい残し」できるようになりました。で、小さい保存容器に入れて冷蔵庫にしまっておくのです。で、忘れる。


残したお惣菜のことは、特別嫌いだったとかそういうことでもありません。好きな食材が使われた好きな料理であっても、全部食べずに残すこともあります。ほどほどに関わって、「またね」というのが気持ちいいと思うのです。


図らずも出会った場面を受け入れる

私の人生、おおむね行き当たりばったりです。そんな生き方をしていると、出会ったものをやがて好きになるのが得意になります。好きというほどじゃなくても、少なくとも「受け入れる」くらいのことができるようになります。認知します。その存在を認め、アタマの中にパッケージができるイメージです。頻繁に接触を繰り返していると、やがてそのものに愛着を抱くようになることってあるなぁと思います。これ、単純接触効果という名前がついているらしいです。


二分化すると、世界は狭くなる

好きか嫌いかで世界を分けてしまうと、嫌いのほうの世界とはお関わり合いがなくなってしまいます。嫌いのほうの領分の広さは、そのまま、自分の世界の狭さです。「嫌い」が多いほどに、自分の世界は狭くなる。反比例の関係です。そんなに単純ではないかもしれませんが。ここでも、単純⇔複雑という二分化をやってしまいそうになりました。


私の感情、感情の私

子どもって、いやなことがあると「ギャー」です。拒絶する。感情を振り乱して、手も頭も足もじたばたさせる。大人は、そうしたことをなるべく避けている人が多いでしょう。少なくとも、私にはその自覚があります。私が大人に「見える」かどうかは別ですが……


感情は、この世にあるもののうちのひとつであることは認めます。でも、大部分じゃないと思います。むしろ、とっても少ない貴重な部分と思っていいでしょう。世界のほとんどは、それ以外のもので出来ています。だから、感情だけにぞっこんになると、そのしもべみたいになってしまう。言いなり、従属です。「私の感情」のはずが、「感情の私」になってしまうのです。いえ、それもまぁ、なんか新しい気もしますが。大人が「感情の私」のままに下手をすると、みっともないだけになってしまいそうです。その新鮮さは失わないように保ちつつも、行使や実現には注意が必要そうです。


おせち料理と理性

おせち料理って、私にとってすごいモチベーションが上がるような料理ではありません。対峙することで「うっは〜〜、たまんねぇ!!いただきます!!」ってなるモノというよりは、しっぽりと


「ああ、ありがたい。では、いただきましょうね。」


と言って落ち着いて食べるもの、という印象です。どちらかと言えば、感情の外側にあるものですね(すぐ、「どちらか」言っちゃう)。生産や労働を休んで、作り置きしたものをゆっくり食べるという習わしには愛おしさを感じます。脈々と続き、積み上げられた文化風習の何を私が知っているわけでもないけれど、ばくぜんと日本人の尊厳がそこにあるように思います。ああ、もうすぐですね。お正月。



お読みいただき、ありがとうございました。