お手餅、よろしおす。

時間が経つのを、こわいと思う私がいます。どんどん「経過」してしまって、あれもこれも味わっていないのに、こなせていないのに、「期日」ばかりが来てしまって、でもそれに何も間に合わせられていない自分がいる。その状況をおそれる気持ちが私にはあるのかもしれません。


いっぽうで、より遠くまで行きたいという気持ちがあります。ならば、早く、どんどん経過してくれた方が、私はより遠くまで行けるのではないでしょうか? 「なんだ、まだこれっぽっちしかやっていないのに、もうそんなに時間が経っちゃったの?」なんて思えるくらいのほうが、「なら、まだまだ私はやれるよ!  まだまだずっと元気だよ」ってなるように思います。間違いでしょうか?


あるいは、遠くまで行ってしまったそのときに、「うわぁ。あれも、これもできていない。それなのに、もうこんなに遠くまで来てしまった。しかも、私にはもうあれもこれもやる元気はない。もうおしまいだ」という実感に支配されてしまうのでしょうか。絶望感で満たされてしまうのでしょうか。


今の私には、正直、わかりません。遠くを見ようとしても、自分の察知できないところまでは見えません。感覚の及ばない部分がどうしてもあります。想像の材料は、いまここにあるぶんだけです。新しい想像には、新しい材料が要ります。で、それがあれば、創造ができるはずです。だから、小分けにする必要があるのだと思います。その「小分け」の単位が、たとえば時間的な区切りの「1年」とかなのだろうと思います。


この2020年を迎えて、昨2019年を迎えたその時からこれまでの経過を思ったときに、私はどう感じているのか? それが「うわぁ、やべぇ、もうこんなに時間が経っちゃった」なのか、「ヨシ、いいぞ。ついに来た! こんなところまでもう来れた」なのか、それ次第で行動を選んでいけばいいはずです。それでもまだ漠然としてしまうのならば、その単位を「1年」でなく、半年とか、季節ごととかにすればいいでしょう。ひと月、一週間と区切りをより小さくしていけば、遠くまで見渡せる高みにいなかろうと、目の前にある状況を察知して判断していけるはずです。そのときに、もちろん、視界の外に何があるのか、影響力のあるものの気配くらいは感じておくに越したことはないでしょう。


私はいつも「それなりだなぁ」と思います。言うまでもないことかもしれません。おお、2020年よ、こんにちは。好きとか嫌いとか、オモシロイとかつまらないとかじゃなくて、私はあなたと向き合って生きていく。その結果の1年が、また始まるというだけです。


とりあえず、方々からいただいた大量のお餅を食べよう。これを燃料にして走り出そう。今日が、はじまる。



お読みいただき、ありがとうございます。