豊かな選択

古い絵画があったとします。私が生まれるよりも前に亡くなった人が描いたものだとします。違った時代に、同じ絵の前に、少なくとも二人以上の人間が立ったことになります。私が眺めているその絵が未完成だった頃に、その画家の握る絵筆なんかが、カンバスの上を滑り動いたのです。その証が、その痕跡が、現代の私の目の前にある絵画なのだということになります。


私は、大量生産品の恩恵を受けて暮らしてもいます。値段が安くて、機能面ですぐれているものはありがたいです。同じ品物が、もっとずっと高いお金を出さなければ買えないよりは、私にとってはありがたいです。そうでないと、私には手が出ません。眺めているだけの関係になってしまいます。それは関係者に非ず、でしょうか。


手を出さずに見ているだけでは、関係者とはいえないのでしょうか? 貴重な品物を私物にするようなお金は払えなくとも、安い料金、あるいは安いとは言いがたくとも支払える程度の料金でそうしたものと対峙する機会ならば、私にも得られます。それを購入して自分の家に持ってきて飾ることはできないけれども、たとえば美術館に行って、私が生まれるよりもはるか昔に生み出された絵画を眺めることならばできるでしょう。それもそれで、私とそうした貴重な品々との「関係」じゃないかしらと思います。


多くの人にその品物を売って直接行き渡らせることはできないけれど、場所を開放して鑑賞体験を持って帰ってもらうという間接的な方法によれば、その品物を多くの人に味わわせることができます。これって、ちょっとした発明かもなと思います。「それは、だれのものか?」と問われたときに、その答えとして特定の個人を明かさねばないような気がしてしまうのは、貧困の発想かもしれません。みんなで共有してより広く楽しめる方向の答えを考え出し、実行できたら、それ豊かなり。コストを分散してみんなで楽しめるようにするのが、それにあたるようなことなんじゃないかと思います。


空に浮かぶ月をいくら綺麗だと思っても、独占することはできません。それを自分だけのものにしたからって、何かいいことがあるとも思えません。むしろ、同じものを対象にして、いろんな人があれこれ言い合えるからこそ、横の関係ができます。点を囲む、点と点の間に結びつきが生まれ、線になる瞬間にちかっと光る。そんな映像が見えます。私の頭の中にも常時起こっているし、この地球や宇宙を遠くから見たって、そんな感じかもしれません。


ひとつのものに注意し、力を込めて、たくさんの仕事を集中させるには、その対象を絞らなければなりません。人間ひとりが、あれにもこれにも力を注ぐのには限界があります。モノが増えるほどに、何とどう関わるかを選ばなければなりません。その対象に選ばれたものを通して、関わる人に愛着が生じます。「選ぶ」というのは、減らす方向性の行動なのですね。「あれもこれも」と欲張るのは、増やす方向の行動といえそうです。


お読みいただき、ありがとうございました。