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西東京市。私の住む町です。ぼんやりと目の前のことをただただこなして消化していくだけの毎日を送っていたときには気がつかなかったけれど、この町には、自分の考えたことで、自分や地域や社会をよくしようとがんばっていろいろやっている人がいます。「自分、このままでいいんだろうか? いや、いつまでもこのままでいられるはずがない。じゃあ、いつまでなら今のままでいられる? それって具体的に「いつ」なのか?」なんて自分や自分の身の周りのこれからのことをまじまじと考えているこの頃です。


自分がどうするべきか。考えるだけじゃなく、ちゃんと行動を起こすために、まず自分の身の周りの状況のありのままを知って、見極め(おおげさな言い方だけれど)ようとします。そのために、まわりをきょろきょろ見まわしてみると、そう、いるいる、まわりをしっかり見て、自分をしっかりみて、自分や地域や社会のために、自分や地域や社会がもっと豊かになって、それぞれが幸福に過ごせるようになるための活動に取り組んでいる人が、いるものだとわかるのです。彼らを見れば見るほど、私がいかにまだ何もやれていないかがわかります。


私は、音楽が好きです。なかでも、自分が歌う曲を自分で作って、ギターやピアノを中心としたサウンドで自ら楽器を奏でながらがちゃがちゃ歌う、というような形式の音楽が好きなのです。で、永続的にそれをやりたいし、すでにやっているとも思います。それは、いわゆる「クラシック音楽」とはかなり異なった肌ざわりを持つものなのですけれど、私は、「基礎は古典にあり」との考えで、あえて、そうした古典音楽をしっかり学べる場であろう「音楽大学」に進学するという道を選びました。


もっと知りたいし、突き詰めたいし、自分のやりたい音楽があるからこそ、かえって違った肌ざわりのそれ(クラシック音楽)を修練することは、苦ではありませんでした。音楽大学での4年間は、朝から晩まで学校で過ごすことも多かったです。卒業のための単位数が足りていても授業をとり続けましたし、自分の専攻の技術を身につけるための個人での修練(私の場合は、ピアノと声楽でした)ももちろん毎日休みなくしたうえで、「じぶんの求める肌ざわりの音楽」の活動を自主的に続けていました。


そんなことが、いわば私の人生の中心に未だにあるのです。それを、私がいまもなお住み続けるこの町で、どういかせるのかということについて、私はまだろくに成功も失敗もしていないように思うのです。何かしなきゃ、何かしたい、と、見回しているだけの現状です。


「アーティスト」的なアプローチで、ぐんぐん自分を売って行くのとも違う。かといって、私の身の周りに、現実に、住んで、生きている人たちに、こちらから迎合していく、その姿勢に振り切るのもやはり違う。あくまで私にできることで、私がこれから、身を粉にしてでも「できるようになりたい」と思えるようなことで、身の周りの人たちを巻き込んで、一緒に良くなって行けるようなことってどんなことなのか。そのバランスって、「気難しい私」の存在を考えた場合、すごく針の穴を通すような繊細さを要求されるのかもしれないけれど、一方で、それなら、答えってもう出ているんじゃないのという気もします。通す穴なんて、そこにしかないんだから。通すべき穴が決まっているのなら、始点で迷うことなどないでしょう?


始点を発ったら、あとは走り続けるのみ。その道で、色んな人の生きているところに立ち寄ってはまた発ってという、旅みたいなものかしらと思います。


長々とお読みいただき、ありがとうございました。