プロセスに何を含ませるか

死ぬこと そのリアル

  死ぬことをリアルに感じられるか。その意識はあるか。私にそれが、あるか。そう問われると、十分にあるとは思えません。死について、なんにも考えてこなかったわけではないけれど、それが十分とも決して思えません。いえ、足ることなんて、一生ないのかもしれないとさえ思いますなんてことをまだ言っている33歳が、いまの私です。


死は普遍か 普遍の入り込む余地のないことか

  死ぬことは普遍的なこととする論理もあるかもしれません。確かに、生まれたということは、死ぬということとセットになっています。生まれたっきり、死なないわきゃない。まだ死んでいない者たちで、世界はできている。そう思います。でも、そう、「おれ死んだんだよね」といって死後の世界を教えてくれる人があるわきゃないのです。もちろん人でなくたって、犬でもキリンでもキジでもプランクトンでも曼珠沙華でもなんでもかまわないのですが、いなくなった者が語りかけてくれることはありません。「いや、あるよ」とおっしゃるのは、その人の感性でしょう。だから、ほんとうは、「普遍かどうか」なんてことはわかりえない。なんて論理が立つのも、わかる気がします。


帰ってきた人がいない、死の世界

  ネットや電話や手紙とかいった通信手段があるから、仮に遠く離れてしまっていても、その人がいまも現に生きているのだということを知ることができます。「実感しえる」くらいのことかもしれません。でも、そういった連絡手段が一切なかったら、遠く離れていってしまった人と、死んでしまってこの世を去ってしまった人と、いったいどこに違いがあるのか? 事実に違いはあるかもしれませんが、その人の生を実感しえる範囲外にいる人にとって、「死んでしまってもうこの世にいない状態」と、ただ単に「その人の生存を実感しえない遠いところにいってしまった状態」の違いって、ないじゃないのと思います。


死の前提とは

  その人の生を実感しえない遠くにいってしまった人であっても、死んでしまってこの世を旅立ってしまった人であっても、いま生きている私の「思い」に浮かぶ存在でありえます。現実として、事実として、「生きているか死んでいるか」は、「存在」には無関係なのかもしれない、なんて思います。極端な話、創作物のなかの登場人物を「思う」ことだってできるのですから。死って、「かつては生きていた事実」を前提にしているんでしょうね。創作のなかの登場人物って、死にえません。心のなかに思うことで「存在する」ことはあっても、死にえないのです。だって、「その登場人物が生きていた事実」がそもそもないのですから。


プロセスに何を含ませるか

  痛みや苦しみと死は、関連する場合はありえますが、イコールではありません。痛みや苦しみの先に死がある、というプロセスは絶対ではありませんが、そういうケースがけっこうあるがために、死は怖いものだとかつらいものだとか、避けたいものごとかのように思われがちです。恋愛の先に結婚があるケースがあるがために、恋愛イコール結婚と思われがちなのとちょっと似ていますね。結婚に至るプロセスに、必ずしも恋愛が含まれているわけではありません。


当人の自由意志で、選択の結果として死のプロセスに何を含ませるか。それが生きるということなのかもしれません。


お読みいただき、ありがとうございました。