求められるものになんて、なれねぇよ。

いつも、「いかに人と違おうとするか」を私は心がけます。たくさんの人が歩いて行く方向があったら、まず、その方向は避けてべつのほうに歩きます。ある日のランチ先を決めるときに、空いていそうなところを求めて歩く、程度のことでもあるし、もっと大きく、長く、遠くから見て大事に思えることでも同じです。そこに、私にとっての本当の楽しみがあると考えるのです。なぜでしょうかね。


テーマだとか、コンセプトだとか、そんなものを先に検討しだすと、私はまず走り出せないのです。完成形、アウトプットの外殻。結果、成果。そんなものを具体的にイメージすればするほどに、つまらなくなってしまうのです。いま私が想像できるということは、すでに「私が知っている何か」と同じレベルでしかないから、かもしれません。すでにあるもの、経験済みのもの、既知のもの。現在の私には、それがあります。そして、なんで、今から、これからの私が、わざわざ、ろくに持ち合わせもない時間や体力を費やして、「既知のもの」あるいは「既知のものに近いもの、似ているもの」を生み出さなければならないのか? そんなつまらないことはないだろう? そう思ってしまいますし、実際、無駄じゃん! と思ってしまいます。


いっぽうで、私は無駄って楽しいじゃないの、と思っています。それは、さきほど申し上げた、「すでにあるものにそっくりなもの」という意味の無駄とは違います。ことばづかいが稚拙なせいで、そんな事態を招いてしまいましたが、つまりは、すでに「つかいみち」だとか、その「価値」、そのものが担える「役割」が明らかなもの、「すでにある、それらの代替になるもの」をつくることほどの愚行ってないじゃん? などと思ってしまいます。


今までにないもの。もちっとおおげさに言いますと、「新しいもの」。それって、今この瞬間(生まれたその瞬間)に、「どんな価値があるか」「どんなメリットがあるか」「どんな機能があるか」「どんな役割を担えるか」なんてことはわからないはずです。それってつまり「無駄」と似ている。けれど、実は、断じて違う! そう、「無駄」なんかじゃないですね。やっぱり私は、ことばがへたです。


それが、どんな機能をもちうる? どんな意味がある? どんな役割を担える? そんなことをまず先に考えるほどに、私は「これまでの私」を越えられなくなります。既知、既存に絡み付かれて、まったく動けなくなります。


無のところから、動き出してみる。まずはそれ。で、ちょっとでもいいから動いてみて、それからはじめて「あ、これってあの問題の解決の役に立ちそうじゃん!」なんてことに気付くので良いのではないかと私は思うのです。「あれを解決しようよ。そのために、的を射るように狙い澄まして生産しようぜ」なんて掲げるほどに、私はまったく機能しないがらくたになってしまいます。


「(つまり、きみは、あの的を射るための狙い澄ました生産はできないって言うんだね?)」はい、できません。私にできることは、私にできることだけ。「(過去の私を含めて)すでに誰かがやっていそうなこと」なんてものは、まったくできないのです。求められるものになんて、なれねぇよ。その「求め」は幻想なんだから。


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