歩く。歩くように、歩く。

・ところ違えば、ひと駅の距離が違う。


東京って、駅と駅の距離が短いと思います。いえ、私は東京都で生まれ育っているので、もともとそう思っていたわけではないのですが、ある程度さまざまな地域を見て回る経験を積んでみると、東京、特に中央から東寄りの地域における、鉄道の「ひと駅」の距離は非常に短いと感じます。


ちょっと都(その中央から東寄りの地域)を出てほかの地域に行ってみると、すぐさま、「ひと駅」の距離は、歩くのには絶望的な距離になります。いえ、もちろん、こってりと労力と時間を割けば歩けない距離ではありません。でも、移動のためにそれ相応のスケジュールを割かなければならないでしょう。


電車をつかって、つるっと目的地へ出かけて行って、目的を果たしたら、また駅を経由してつるっと電車で帰ってきてしまう。そのことに、寂しさを覚えることがあります。「ああ、このまま改札に吸い込まれて、予定どおりにことが済んでしまうのがつまらないなぁ」そう思えることがあるのです。でも、その誘引力に抗えないままに、ただ目的地で予定どおりの案件を消化して、それだけでまた電車に乗って帰ってきてしまうことは殊に多いです。


・じぶんで景色を動かすおもしろさ。


電車に乗っていたら、目を閉じていても移動します。自分の外側の景色が、びゅんびゅん変わって行きます。でも、その変化のすべてを、私は知らない。感じきれていないのです。


一方で、「歩く」というおこないがあります。あれは、とにかく、じぶんで力を消費して足を動かさない限り、景色が変わりません。自分の体が移動することもありません。起こしたアクションに対して、それに応じた景色の変化が得られる。それが、「歩く」ということです。


散歩の楽しさって、そこにあるとおもいます。すべて、自分の賭したものに対するリターンで構築されている。その体験が、散歩です。(そこに想定外がある、想定外ばかり、だから楽しい、余計に楽しい。)


至った先で疲れてしまって、もう帰りたくなってくる。そのときも、自分の足で体をはこんでいって、帰路を消化しなければなりません。タクシーに乗っちゃうとかいう選択肢もあるかもわかりません。私は一度も選んだことのないものですけれど、急な体調の悪化とかがあれば有効かもしれません。


タクシーに乗る手は考えないけれど、行った先の近くにあった駅にひょいと気の赴くままに乗ってもっと遠くへ行ったり、あるいは帰ってきてしまったりということは楽しめると思います。それもまた、自分の起こした行動に対して、ついてきた経験の一部です。


「歩く」っていう概念。その一部をいまも、歩いています。


お読みいただき、ありがとうございました。