キャンペーンの外側で

人に影響を与えるような、すごい力をも持ったものごと。それを中心にした人の集まりとかですね、とにかく、多くの人と共有できるような楽しみがある。そういったものごとの力って、すごいと思いますし、私自身も、何か、そういうものの方向を向いて、他の人たちと一緒に生きて行きたいとも思っていますし、そういうものを享受する人、かつ、そういうものを与えられる人間になりたい、自分自身が与えられる人間でいたいと思っているのもやまやまです。


その一方で、私は、誰にも知られずとも、1人でもくもくと取り組み、その成果を1人でまじまじと眺めて、にまにまとしたり悔しがったりして完結するという遊び(もしくは単に、過ごし方)をずっとやってきたように思います。それはたとえば、歌をつくって楽器や声の録音をすべてじぶんでやって最後に聴く、というようなことだったりするのですけれど。


こんなご時世だから、いま、そうした、「ひとりで完結」型の生き方・過ごし方って、注目されてもいいのかななんて思います。ある意味、それをずっとしてこなかった人にはつらいご時世かもしれません。反対に、私が憧れを抱くような、多くの人とシェアして、集って、みんなで盛り上がるといった性質が強い楽しみを中心に過ごしてきた人は、その多くがいま、禁じられてしまったり、制約されてしまったのに近い状況にあるかもしれない、なんてことを思います。


今まで当然のようにしてきたことが、急にできなくなるということがありえるのです。まさに、今がそうでしょう。


春です、今。ですので、卒業とか、進路とか、そういった言葉で象徴されるようなものごとに心を寄せたり、考えたり、行動したりする人が多いと思います。中には、いちばん選びたかった環境を手に出来なかった人もいるかもしれません。


私は、よく、そうした、この先、一定の期間を過ごすであろう環境に対するなんらかの不満を抱く人に出会うたびに思うのです。それは、どこに行くかじゃなくて、何をするのかが大事なんじゃないですか? ということです。もちろん、この先、自分が歩を進めようとしている土地、場所、環境、その条件によって、できることとできないことがあるのは当然です。期間が決まっていて、そこを過ぎればどこへ行くも自由、という見通しでもあれば、その期間を他のことをしてやり過ごせばまたチャンスはめぐるという希望を抱けもするかもしれませんが、その期間の見通しが立たない場合もあることと思います。その場合だと、不透明な未来にとにもかくにも不安ばかりを抱いてしまうのもわからなくはありません。


でも、環境や条件に制約があるのは、どこも同じ。希望通りの環境や条件に自分の身を置くことこそが、人生であると考えてその通りにするのも素晴らしいことです。では、その通りにならなかったら、人生は素晴らしくないのか? それですませていいのか? 


その通りになるように向かって行く過程そのものが人生なんじゃないかと思うのです。だから、今がその通りになっていなくとも、「楽しめない」「素晴らしくなんかない」と思うのは、その人(あなたかも?)次第で変えられるはずです。


他人事だからそんなこと言えるんだと思う方もあるかもしれません。おっしゃる通り、自分以外のことは私にとってすべて他人事だから仕方ありません。開き直っているのではなく、事実です。


不自由や不満。そうしたものを「ルール」にしたゲームなんだから、その試合を楽しむ以外にない。なんて言い方をするのは、すこし不謹慎すぎるかもしれません。けれど、そういうことなんじゃないかな。これは、私が私自身にいちばん言ってやるべきことかもしれません。


先日、「こんなご時世」ですから、普段どおりだったらばどこか室内でやったかもしれない、ある集いを、屋外でやりました。そこは、ある神社でした。人の流れがあって、オープンで、気持ちがよかったです。話をしたりする場面もあったのですけれど、関係のない人も行き交います。そうしたノイズが心地よかったのです。都会?の神社だったのですけれど、幹線道路のエンジンの遠鳴りがなぜかむしろ心地よく感じられました。顔をかすめるような近さで聴いたら、きっと不快だろうなと思うような騒音です。


距離。空気。話(会話、談話、対話)。孤独。


この機会にこそ意識してみて、今までやれなかった・やらなかったようなことって、あるなぁと思いますね。




お読みいただき、ありがとうございました。




青沼詩郎