切らない札

一世一代の経験なんて、まじまじと考えると、ホントないように思えます。ある恋愛が自分の望むようにいかないとか、終わったとか、そのときに味わった気持ちは、それこそ「生きる死ぬ」レベルの激情だったことは確かに記憶しているのですが、だからといって、それ次第で私の命が実際に危うかったとかいったことはまったくありません。ですので、いかに自分が「一世一代」をやっていないかということを思います。


一方で、漫然と思うのは、私は、4歳でピアノを習い始めて以来、ずっとずっと音楽にまつわる活動を続けているということです。そのことを一世一代なんていうのは、それこそ「生まれたときからずっと一世一代だぜ」なんて話をごまかすみたいに言うのに等しいことかもしれませんが、でも、それともちょっと違うんだよなという気持ちが私にあります。せいぜい気持ち、ですけれどね。


33歳の私、たくさんのライブハウスでたくさんの出演を経てきています。たくさんのミュージシャンと出会いもしましたが、その中で、どれだけの人が、人生を音楽に割き続けることをしたかといえば、やはり別の道の方へ行ってしまった人も多いと思うのです。音楽にまつわる活動を続ける、その道を行き続けるということには、「単に、生まれてから、これまで生きてきた」以上の意図やら意思みたいなものが含まれているように思えるのです。


最近しばしば思うことがあって、それは何かといいますと、「あらかじめ、それがなんなのかを決めない」ということです。それを大事にしたい気持ちなんです、最近の私。たとえば、「私は●○←職業名が入る)です」と言えば、確かにその人のいち側面を言い表すことができるかもしれませんけれど、それで全てではありません。「●○」でない、「●○以外」のその人から目を背けることになってしまいかねない。それを、私は避けたいと思うのです。


「こういうもの」を想像して、そこに向かっていく。つまり、目標を立てて、その実現のために計画をして確実に遂行していくのは、ひとつ、生き方とかやり方としてあるかもしれません。「こういうもの」の想像が、すごくリッチですばらしいものだったら、それもいいかもしれません。ですが、どうも、私の場合、私が想像できる「こういうもの」ってすでにどこかにあるものに似ているものでしかないのです。私は、それになることを望まないし、それを実現するために緻密な計画をしてその通りにそれを実行していくというのは苦痛だと思うのです。苦痛を避けていては何もなせないかもしれない。もちろんそれはそうですし、計画どおりにいくことなんて実際にはこれっぽっっちもないので、トライアンドエラーを繰り返すことになり、その「想定外」そのものこそが、豊かな人生のワンシーンなのかもしれないとも思います。


うまく言えないのですが、私はあまり「はじめから決めてかからない」ようにしたいのです。あとから、そのもの一帯が、偶然、幸か不幸か、「あるもの」として活用できるという路を見出すのはいいとして。


けっこう、ある一帯の自分の人生が「一世一代」であるかどうかって、難しいですね。あとから、「あれは一世一代だったなぁ」っていうのはアリなんでしょうか? 命、生き死にがかかっていないとそうはいえないのでしょうか? それとも、人生に多大な影響を及ぼす岐路みたいなもののことをいうのでしょうか。そのときに、まさにその状況に立ち会っているその瞬間に「いまが一世一代だ」ってわかるものなんでしょうかね。などと言っている私は、一生、「一世一代カード」を切ることがないのかもしれません。「カードを切らない」という一世一代の事実が、私が死んだときに成立するのか? 



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎