信の死角

ある対策を打ち出せば、かならず否定の反応が返ってくる。あるいは、対策を打ち出さなくても、否定の声が投げかけられる。それなら、と手のひらを返して、否定された方向性とは反対を向いた対策を打ち出す。それにもまた、否定の声が集まる。ネット上を見ると、そんな書き込みが必ずと言っていいほどあるでしょう。


そんなものを見ていると、さも、その話題について世の中が高熱を出しているかのように見えます。しかし、その、ネットの書き込みの場に参加している人って、総人口に対していかに小さな割合かということを思います。あるネットニュースがあって、そこにコメントの書き込みがたくさんされていると、さも、世界がこんなにも反響で席巻されている! と咄嗟に思いもするかもしれませんけれど、それは、ごく一面、いえ、面どころか点ほどのものかもしれないのです。


かなり多くの割合の人が、表層の情報だけをすくい取って、たとえば「日用品の買い増し」に動いたり、あるいは過剰なまでに無頓着でいるのではないかと思います。(私はどちらかといえば、後者になりがちな性格だと自分では思っています。)


制限や拘束力のきつい方策を一気に打ち出せば、そうしたたくさんの「表層の情報だけをすくって、適切とはいえない行動を起こしがちな人たち」や「過剰なまでに無頓着な人たち」を、ウィルスの拡大を防ぐために最も理想的なほうへ導けるかもしれません。しかし、このきつい制限や拘束力の発揮の代償となるものを同時に鑑みなければならず、天秤にかけた上で最も適切と思えるところの方策を決めてかからなければなりません。緊迫した現場もあれば、のどかな縁側もどこかにあって、そうした両極端な現実を踏まえた適確な舵取りが望ましいのでしょうけれど。


信じたいものを、自由に信じる人たちの集まり。その社会の幸福度が高いのか低いのかわかりません。信用ではなく、証拠や根拠に基づいた判断が真の自由を保障するのではないかと思います。「信頼できる筋によれば。」最近、特によく見聞きする枕詞。私もついそんな言い草を用いがちな1人かもしれません。感情や好みで信じるのでなく、数字や証明されたことをもとに信じるのがいいのではないかと思います。といいますか、あまり「信じる」を「信じすぎないほうがいい」といいますか「信じる」には、必ず死角がともなうというのが私の考えです。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎