24時のペルソナ

私が「友達」だと思っている人がいます。それから、案外、「私はこの人のことを、友達だと思っていたんだな」と気付かないでいることもあります。


私に、「友達」が多いのか少ないのかわかりません。数は別に問題だと思いません。有無すらも、本当は問題じゃないのかもわかりません。


私は、ある友達に何度も会ったでしょう。何度も会ったから友達といえるのかもしれないけれど、一度しか会っていなくても友達といえることだってありそうです。


私はある友達の、断片しか知りません。私が知っているその人のことなんて、点でしかないのです。それらの点を、ある意味乱暴に結んで、私は「その人」と思うことにしてしまっています。ほんとうは、私がピックアップしている点以外のところで、右や左や、天やら地方向に大きく振れているかもしれないとしても、私は、せいぜい、点と点を結んだ線くらいの想像しかできないのです。多少のうわずりやぶらさがりくらいは想像の範囲内だったとしても。


極端な想像は無理だというのでもありません。そういうことだって、現実にあることです。私の友達に、そういう極端が起きているかもしれないし、友達にとっての私の身にそういうことが起きていて、友達の中で結ばれた「私の点」たちが浮かびあがらせる線が、現実の私に重ねるにはあまりにも相違が大きいなんてこともありえるはずです。


今はまだ知り合っていなくても、これから友達になるかもしれない人が、世界やこの国やらのどこかにいて、私はその人の存在を想像します。例えば看護師をしていて、いま、不安の中で、どこかで忙しくしているあなた。そのあなたと私は、そのうち知り合って友達になるかもしれません。消費されることを承知で、使命をまっとうすべく、休めと言われるくらいに休みもなく身を削って働いているどこかのあなたとだって、それ以外のあなたとだって、この先友達になることがあるともないともわかりません。


これから知り合うあなたの、顔の輪郭はどうで。目や鼻などのパーツはどんな配置で、そのパーツの造形はいかがなもので、その人のある朝7:00:00から次の朝7:00:00までは仮に30フレーム/秒の解像度で果たしてどのような一日であるか。そんなことまで分かるほどの想像する「力」が必要なわけではありません。その「力」の大小で、その人の存在が肯定されたり否定されたりすることもないはずです。


いろんな人のいるこの世界に身をうずめる一人として、たまには浮かび上がったり、やっぱり埋没してみたりしながら、誰かを支えたり誰かに支えられたりしています。


お読みいだたき、ありがとうございました。




青沼詩郎