予め生きておく

最近のことで、自分がすごく簡単に目に触ってしまっているのを自覚しました。セキやら鼻水やらで、口や鼻まわりのことは前々から意識があったのですが、目は「触るべからず」の対象として意識できていませんでした。目が疲れると、ついぎゅぅっと手でおさえてみたり、こすってみたりしがちでした。眠くなったときや、目やにや異物を感じたときにもそれを直接触って取り除くことが正義かのように手を動かしてしまっていました。あれのおかげで、これまでどれだけ私は風邪や感染症になったかわかりません。


目は粘膜質ですし、鼻なんかと直接つながっています。鼻とつながっていれば、その先で当然口ともつながっています。鼻や口はさわっては駄目で、目はいいなんて理由はどこにも見当たらないのは自明なようでいて、私が意識できていなかったことです。思えば、目がひりひりしたりかゆくなったりしてこすってしまって、まずものもらいができたみたいに、まぶたや目の縁がぷくっと腫れてしまうという異変から、次第に風邪のような症状があらわれ始めるなんてことがこれまでにもありました。もっと気にするべきところがあるのに、他の部分への対処のみで、十分な対策がやれている気になってしまう。そんなことって多そうです。見る人が見れば、どこが問題なのかが明らかな行動を、無自覚にやってしまう。今までに、今もそう、どれだけ私がそんな間違いを犯したか。


過去にも、似たようなことがあって、今後も、そういうことが起こる可能性が高いだろうということが、現に起こります。そんなことが起こるなんて思いもしなかったよというたくさんの人がいる一方、当然起こりうるものとして警鐘を鳴らし続け、対策を考えて進めてきた人がいるんですね。私は「危機管理」ということばを近年よく聞くようになったなと感じます。もちろん、私がそう感じ始めるよりもずっと前から使われてきた言葉だろうと思います。単に、私個人の社会参加の度合いの高まりが、その言葉との接触の機会を増やしただけかもしれません。


「困った事態」が起こってはじめて、より多くの目がその解決策に向けられがちです。「困ったことが起こる前」だと、起こりうる危機への対策の価値を、低いものとみなしがちな私がいます。今日や明日、事故や病気やトラブルで私が突然死ぬ可能性は当然あります。それでいて、そうならない可能性ももちろんある、むしろそうならない可能性の方が高いと踏んで、私は、最悪のシナリオ前提の行動をなかなか取りません。そのシナリオが絶対だったら、今日や明日の行動はだいぶ変わるのかもしれません。残された短い時間に何をやるのか? そんなに短い時間じゃあやれることなどほとんどないと割り切って、むしろいつも通りに過ごすのか? それにしても、絶対起こると分かっていることだとしたら、そのときに極端な反射を起こさずに済むのではない?


「新しいウイルスの流行」というのが現実にあることは承知していたけれど、それが2019—2020のいま起こるとは思わなかった私が確かにいました。やっぱり、どこかで、「死ぬのに死ぬと思っていない」っていうのがあるのかな。矛盾した不完全な生き物が、私です。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎