福神漬けか、たこわさか。〜ライブ配信してみてわかったこと〜

最近私は、さまざまなプラットフォームをつかってのライブストリーミングを試していました。家での弾き語り演奏の様子を、各SNSのライブ機能や、動画サイトやライブストリーミングを主目的としたサイトでネット中継してみたのです。


これが不思議なもんでですね。家にいて、ひとりの部屋なのに「配信開始ボタン」を押すだけで、めっちゃ緊張しまくるんですね。もう不思議でなりません。いつもの家の、いつもの部屋にいつもの自分(?)がひとりいるだけなのに、ガチガチに緊張するのです。「緊張のひどさ」のみについていえば、対面で現場形式の「ライブハウス」のほうがよっぽど楽だなと思いました。慣れの問題なのでしょうかね。


緊張すると、歌詞が飛びます。もう、頭の中まっ白です。1コーラス目で飛んじゃって、とっさに2コーラス目の詞を歌ってごまかしたならまだ良いほうです。それより悪ければ、ハミング。最悪なら、歌が止まり、絶句で伴奏のみ。そんな失敗を数度して、カンペを置くことを学びました。(今更か!)


「まぁいけるっしょ」くらいの記憶定着では、歌詞が飛びます。もう、完全に身体に刷り込まれていて、眠っていても歌える自動運転の境地暗譜には、そこに至る必要があると思いました。クラシックピアノの経験がある私は、そんなこと百も二百も承知のつもりでいたのですが、承知の返事はどうやら生返事だったようです。私は何もわかっちゃいなかった


生放送は、逃げも隠れもできません。すべての挙動が伝わります。失敗もそのまま。「伝える・伝えない」の取捨選択が、あとからできません。当然のことです。直接の対面・現場形式のライブだってそれは一緒です。ですので、どこまでの範囲をどう伝えるのか、その伝達の実現のための入念な準備や打ち合わせがいるように思います。やりながら準備不足に気付いて、撤回したり出直すことがかなわないのです。


「ボタン押しイッパツ」で伝えることを始められる。その気軽さ、そのハードルの低さゆえに、見切り発車しがちになるという効果がライブ配信にはあるのではないでしょうか。少なくとも、愚かな私はそうでした。


収録、取材、編集を経ての公開だとしても、実はこれ、まったく一緒なのではないでしょうか。「とりあえず取材」は、ときに悪癖かもしれません。準備や下調べやリハーサルの不足が、とれる素材の品質低下を招く。品質低下ならまだよくて、使えない素材では編集でどうにもできません。カレーライスを食べるから福神漬けを用意しよう!と意図したのに、蛸わさびが得られたのでは「は?」となってしまいます。(「それもいいか」もあるとは思いますが)


求められている「福神漬け」。それを得て、他の人にも与えよう! とすることから逃げがちな自分のことを思います。ついつい、場当たり的に動いた結果の蛸わさびで自己完結してしまうのです。


ところで、「見当はずれ」やとんでもない勘違い、トンチンカンな大失敗から生まれる技法や発明は多いでしょう。クラブハウスのDJだとか、スタジオのバンドマンたちだとかが、機材のセッティングのミスや誤った操作などから多くの技法を編み出しました。


「痒い所に手が届く」、望むとおりのものをお望みのところに届ける前提は最重要だと思いますが、道中での想定外をおもしろがったり楽しんだりすることで拓かれていくものがあるのも、真実だと思います。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎